コロナウィルスで死ぬ覚悟

今年の2月くらいに考えていたこと

なんだか、物騒なタイトルですが、今年の2月頃。コロナウィルス がじわじわと日本で伝染し始めた頃に考えていたことです。当初このウィルスは感染すると死に至る疾病で、さらに決定的な治療薬がないということで、僕はかなり「死に対する恐怖」を感じていました。

人間誰もが「死ぬことへの恐怖」というものは、多かれ少なかれ持っていると思います。その起源は幼い頃。小学校の頃から。「人はいつかは死ぬ」ということを学び「死ぬ」ということはどういうことなのかずっと考えてきました。

では何が恐怖なのかと言うと「死ぬことは苦しいのだろうか」ということへの疑問。中学、高校と親戚に不幸が続き、心筋梗塞、脳卒中、癌…といわゆる日本の三大死因で、僕の知っている人がこの世からいなくなりました。そして社会人になり両親とも癌で他界。闘病中は随分苦しかったように見えました。

そして最近では、愛する娘が自殺。そのとき彼女は苦しかったのか、どうだったのか、今でもとても気になります。苦しかったとしたら可哀想だな…と。

ひとはいつか死ぬということ

その後も僕は年を重ね、2年まえに還暦を迎えました。60歳というのは僕の母親が癌で死んだ年齢。なので、自分にとって「死ぬこと」が随分身近に感じていたことは事実です。

そして、この数年。妻と毎日を楽しく過ごし、一度は無くしてしまった「家族」というものが僕にもできて、血は繋がっていないですが息子や娘、そして孫にも囲まれて過ごす日々。それがとっても幸せなのです。

その幸せな日々たるや「もう、いつ死んでもいいや」…と思えるほど。こういうことを書くと死亡フラグが立つので止めなさい…と友人はアドバイスしてくれますが、要は、それだけ日々が充実していて、幸せであることを噛み締めているということです。

このブログにも「終活」というテーマで死に向かう自分と向かい合うことを考える年齢になった…と思っていますが、まさにそんな感じ。

志村けんがコロナウィルスでなくなった時に、1週間という短い期間で天に召されましたね。1週間なんてあっという間です。昔の僕ならば、自分の命が1週間後だとしたら、あれもしたかった…これもしたかった…ときっと人生に悔いを残してしまっていると思います。

ですが、今の僕は大きな悔いがない。…「悔いがない」というのは正確じゃないですね。1週間後にゲームセットになるとしても「しゃーないわ、まあまあよい人生だったなあ」と思えるようになったと言うことです。

もちろん今現在生きていて、やりたいことは沢山ありますよ、まだ観ていない映画もあるし、読んでない本もある、聞いてないレコードもあるし、ギターやピアノの練習もしたいし、新曲も作りたいし、ライブもやりたいし、小説の第二弾も書いてみたい。

…こう書くと「悔いだらけ」のようですが(笑)、それでも1週間でゲームセットなら「しゃーないわ」と思えるようになったのです。それよりもむしろ…。

仮に、僕たち家族がコロナウィルス にかかって、完璧に治癒する薬があったとします(人工呼吸器でもよいですが)。ですが5人家族で薬は3つしかなかったとします。ならば僕は妻と一緒に、薬を飲むことを諦める人生を選択するでしょう。迷わず。

よく「悔いのない人生」とか「悔いのない生き方」なんて話がありますが、それを実現するには、たくさんの努力をすること…という、なかなか達成できない目標ではなく「いま生きている瞬間の幸福感を実感すること」だと思うのです。

大切なことなので、もう一度書きます。

重要なのは「幸福であること」です。幸福だと感じること、幸福に感謝すること。幸福であることに手を合わせること。それさえあれば、死ぬ覚悟を受け入れることができる。と思います。


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