中期という時期もありました
(前回のつづき)前回、遊星都市は前期と後期という時期があったと書きましたが、実は中期というか、その間の時期もありました。最初の頃から手伝ってくれていた黒田君が脱退して(彼はアフターディナーというバンドに移籍)、抜けたベースをコンチの友達の「藤井のおっさん」が参加したのです。さらにドラムの一宮くんも脱退したので、ヘルプとしてオハラ君というメンバーが手伝ってくれました。
オハラ君は、シモンズという、これまた100万円もするエレクトリックドラムを持っていて、うちのバンドはジュピター8とシモンズという、なんかブルジョアな(笑)バンドだったりしました。
このあたりのライブは映像が残っているはずなのですが、手元にないので見つかったらアップしますね。
暫く中断後に、再び録音に熱中する
このメンツのあと、カトー君も脱退し中期の遊星都市は自然消滅となりました。僕自身はライブメンバーとしては、このラインナップが気に入っていたので少し残念でした。
そしてまた、一人になってしまうのですが…、もうこの頃にはバンドメンバーがいなくなるのは慣れっこになっていました(爆)。気分はポール・マッカートニーの「バンド・オン・ザ・ラン」です(なんのこっちゃw)。やはり社会人が学生さんと一緒にバンドを続けるのは難しいですよね。
ひとりになっても何故僕は平気だったのか。実はこの頃に新兵器を手に入れたのです。それはローランドのMC-500というシーケンサーです。上の写真がそうなのですがシーケンサーとは書いてなくて「マイクロコンピューター」と書かれていますね。
確かにその通りで、MIDIという音楽規格を介して、楽曲を全部ここに入力していくことができるのです。かの有名なイエローマジックオーケストラがコンピュータを使っていた…というのは、このMC-500の前にリリースされていたMC-8という機材(4人目のYMOと言われていた松武 秀樹が使っていました)
このマシンを手に入れてからは、プラネットシティ時代のフォステクスの多重録音のように、過去の曲を全部打ち込み直し、さらに新曲も作っていました。
再びゴンゾと出会う
再びひとりで音楽制作をしている頃、エンゼルアワー解散後(というか大阪芸大卒業後)ベースを弾いていたゴンゾが、東京から帰ってきて大阪で就職しました。僕たちは再会を祝し、夜な夜なミナミのバーでジン(タンカレー)を飲みながら昔話をしているうち、やっぱ一緒にバンドやろうぜ。ということになり、ゴンゾは僕と同じMC-500のマーク2というシーケンサーを購入しました。
彼はすでにヤマハのDX7というシンセサイザーを所有していたので、それを使ってMIDI入力のプログラミングができる環境が整います。そして音源としてローランドのシンセサイザー音源を買い足したり、サンプラーやデジタルリバーブを購入し、僕たちはシーケンサーのフロッピーディスク交換という形態のバンド活動というか、音楽制作を再開させたのです。
やっぱライブもやろうぜ
そして、やっぱライブやろうぜ…とどちらともなく酒を飲みながら話題が出て、ライブではゴンゾは、再びベースを弾くので、ギターはエンゼルアワーのコンチを誘おう、そしてキーボードはゴンゾの大阪芸大音楽工学学科のピヨにお願いしようということになったのです。今度は100%全員が社会人バンド。それぞれが仕事を持って、その合間に練習してライブに臨みました。
このライブは、完全にドラムレスのプログラミングベースの演奏。さらにMC-500が2台あるので、1台が演奏している間に、もう1台が次の数曲をフロッピーディスクからロードするという、ガチでライブなバックエンド体制。このライブではテープのカラオケとかインチキな手法を一切使わずにがんばりました。
これはこれで面白かったので続けたかったのですが、ライブの後にピヨが結婚のため故郷に帰るという事態になり(これはこれで社会人バンドの宿命w)、後任にピヨのエレクトーン教室の教え子を3人送り込んでもらい(そのときコンチは脱退)、ドラムスに僕の仕事仲間の松村君を加えてのライブを行いました。
この頃、僕とゴンゾは20代後半…というかアラサーのおっさんでしたから、若くてピチピチしたギャルが3人もいるバンドで、ジェネレーションギャップを感じつつライブを終えました。
おそらく、このライブが大学から続いた僕の最後のライブ。1980年から8年間のエンディングなのです。