エンゼルアワーの最初の危機

春になったらバンドをどうするのか?

年が開けて1981年。エンゼルアワーとして活動当初からめまぐるしい変化をしてきた僕たちにも、年明けから4月に向けて、少しだけ陰りがやってきます。というのも、バンドの中心人物であり、全ての楽曲を作り、バンドのコンセプトやイメージを構築してきた谷くんが、3月で大阪芸大を卒業してしまうのです。

4月になり、フロントマンが抜けてしまうとどうなるのか…という不安があるものの、僕たちは相変わらず毎週スタジオで練習をして、谷くんはどんどん新曲を作り続けています。この頃に作られた谷くんの作品は、自分がバンドを抜けることを考えてか、鬼気迫るものがあり名曲ばかりです。

そうしている間に、オーディションが受かったバハマの2度目のライブがあり、さらに茨木の我楽苦多というライブハウスのオーディションが決まり、さらには名古屋のエレクトリックレディランドにも出演が決まり、僕たちはどんどんライブをこなし、その都度に手応えを感じていました。

特に名古屋のライブハウスは、谷くんの実家が愛知県ということもあり、ライブ終了後に谷くんの実家に泊めてもらい、翌日は犬山の明治村まで遊びにいったりして、ライブツアーの楽しさを満喫していました。

谷くんの代役が見つからない

そうこうしている間に、時間は待ってくれず、谷くんが卒業したあと僕たちはバンドを継続することを決めました。そして谷くんの代役として新しくボーカルを探したのですが、これがなかなかうまくいきません。

谷くん在籍のエンゼルアワーのラストライブ。

最初は音楽工学学科のSくんに声をかけて、新しいボーカルとして参加してもらったのですが、何しろエンゼルアワーの1年の歴史を全部覚えてもらい、すでに20曲を越えていたオリジナル曲の歌詞を覚えてもらうのも大変。

なにより、谷くんの世界観を伝えることが難しい。言うなれば歌詞の元になっているような書籍や映画などを把握しないと、なかなか細かいニュアンスが伝えられない。要するに「残念だけど合わないなあ…」ということになり、申し訳ないけど、2回のステージで解雇させてもらいました。

続いて交流のあった「電動マリオネット」のTONOくんにも声をかけたのですが、これもカラーが違うなあ…と。今考えると申し訳ない感じです。いやほんま。

そして4人でライブを行うことに

Sくんの時も、TONOくんの時のステージも、僕がベースを弾きながらサポートで歌っていました。そしてコンチが「エンゼルの曲はおまえが一番よく知っているだろうから、モンタが歌えよ」ということになり、4人編成のエンゼルアワーとして僕がベースを弾きながら歌うことになったのです。

以下に貼ったのが、4人編成のエンゼルアワーのライブ音源。ベースを弾きながら歌っているのが僕です。

しかし、実際にやってみるとベースを弾きながらボーカルをする…ってのは思った以上に大変でした。キャロル時代の矢沢永吉みたいにはいきません(笑)。そこで僕からの提案で「新しくベースをメンバーに加えて、僕はボーカルに専念したい」ということになり、新しくベースを探すことになりました。

そして、そのベース担当は全員が思っていた人物が引き受けてくれることになり、光の速さで新しいベーシストが決まり、再び5人編成のエンゼルアワーになっていったのです。

つづく


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