家の中に筆記用具が山の如く
物心ついた頃から家の中に、紙と筆記用具は山のようにあった。というのも母親の実家が紙問屋で、文房具類には困ったことがない子供だったのです。
「マンガばかり読んでいた子供」が、自らマンガを書き始めるのは時間の問題でした。と云っても雑誌や単行本やテレビのマンガを書き写していただけで、自ら物語を考えたりとか、そういったクリエイティブのレベルが高いことは、できなかったです。
とは言うものの、小学校時代は学級新聞の担当になり(てゆうか勝手に立候補して勝手に仕切っていた)、マンガばかりが載っている学級新聞を作り、年に二回の遠足では、バスの中で歌う「歌集」を勝手に作っていた。当時は「ガリ版」と云って蝋紙を鉄筆という専門の筆記用具で削って描くという、どの学校にもあった簡易印刷的な仕組みなんですけど、なんと僕は小学生にして「マイ鉄筆」を持ってたという、なんとも「やる気満々」な子供だったのでした。
当時、おそらくクラスの中でマンガを書くのは僕が一番上手だった。だからクラスの中で他の同級生が侵せない聖域だったのでしょう。しかし、クラスでは一番マンガがうまくても、学年となるとどうだろう。この学年でマンガがうまい奴が隣のクラスに居る…ってのは、風の噂で(どんな噂やねんw)聞いていて、そいつは谷健児というやつだということは知っていた。
中学になってからもマンガ描いていた
そして僕たちは中学校に進学する。愛知県の稲沢市立大里中学校だ。当時は同じ区域の2つの小学校から集まった子供がひとつの中学に集まる。そして僕が中学一年で同じくらいになった中に、その谷健児くんが居たのです。
出身小学校で、マンガのうまい子供が、ワンツーで同じクラスになった。なんという偶然。神様ありがとう。そして僕と谷くんは秒速で友達になった。もちろんお互いにマンガのうまい同級生であることは知っていた。昨日の敵は今日の友なのである(謎)
谷くんと同じクラスになってからは、毎日ずっと遊んでいた。部活が終わると一緒に帰り、日曜日は一緒に秘密基地を作った。そしてある日、谷くんは自分のノートに描いているマンガを見せてくれた。そこにはサイボーグ002と004が仮面ライダーと戦っており、そこにスパーダーマンも参戦して、さらに自分で考えたヒーロー「ミーティアマン」が登場する。もうこの衝撃たるや、凄まじいものでマンガは好きにやってよいのだと思いました。今見ても、むちゃくちゃな感じが凄まじい(笑)
「このマンガ、続きを描いてもええで」と言われて、僕たちはマンガを合作した。そうこうしている間に、次々にノートは増え続け、20冊くらいになっていた。むろん、そこには新作もあった。
高校になってもマンガを書き続ける
そんな谷くんとの中学生活は、8ヶ月間だけだった。中学一年の三学期、僕は稲沢市から横浜市に引っ越した。しかし、そこからも僕たちはずっと文通し続けた。それは高校卒業までの間の5年間。
考えてみれば、当時「文通」というのはひとつのブームで、字がうまくなりたい子供に向けて「日ペンの美子ちゃん」の広告が、漫画雑誌に掲載されており、「ペンパル」なんて言葉もあった。
当時の文通は、男女交際のひとつ手前の疑似恋愛っぽい役割も兼ねていて(笑)、僕も雑誌で知り合った女性と何度か文通したが、谷くんと手紙をやりとりする方がずっと面白いので、再び文通を介してマンガを描いては、情報を交換していた。もちろん、合作のマンガノートも、愛知県と横浜の間で、なんども往復していたのだ。
さらにそれは、高校になってからも続いており、他人から見れば男同士の文通で何が面白いのだと云われそうだけど、男同士だから5年間も続いたのかもしれない。そうそう高校になってからは、ブルース・リーに没頭していたのでドラゴン怒りの鉄拳をマンガにしたこともありました。
彼との文通は僕が大学を一浪して、同じ大学に入学してからは終了したけど、すごく中身の濃い6年間だったと思う。