デザイナーとして独立した頃

これまでの流れ

大学を卒業してレコード屋に勤務した→
レコード屋を退職してデザイン会社に勤務した→

最初のデザイン会社を辞めた理由は家族が深刻な病気になって、その看病を理由にしました。実際そうなのですが、フルタイムの看病でもなかったので時間が余ります。しかも既に大学を卒業していたので自分の分は自分で稼がなくてはいけない。最初は家の近所にあるドライブインでうどんや、お混み焼きを作っていたのですが(笑)、やはりデザインの仕事がしたいということで、友達に「アルバイト的な仕事はない?」と聞いているうちに、声がかかるようになりました。

最初のデザイン会社では、自分にはデザインなんて向いてないんじゃないか…と自信喪失気味だったのですが、やはりデザインの仕事に戻りたいと思ったのは不思議な気持ちの変化でした。

アルバイト的に仕事を任せられて、ざっくりと1週間くらいの間に、ヘルプとしてデザインの手伝いをします。大抵はカタログのようなボリュームの大きいものが多く、連日写真のアタリをとったり、工業製品の部品を修正したりと云う単純作業だったのですが、今までひとつの会社で学んだことが「デザイン作業」だと思っていた僕に、それぞれのデザイン会社で若干のルールが異なることが新鮮で、自分にとっては大きなプラスになりました。

アートディクレイターの師匠に付く

そんな中、大阪から発信するファッション雑誌を作るというプロジェクトがアメリカ村で生まれました。アメリカ村には若者向けのブティックが多く、その西区周辺にはデザイン会社も多いですが、アパレル関係の小さなブランドも多く、ちょうど原宿と千駄ヶ谷・神宮前みたいな関係なんです。

そこに小さなマンションブランドやカメラマン、スタイリスト、コピーライター、デザイナー、ライターが集まり雑誌を作ることになりました。いわゆる寄せ集めの外人部隊のような集団で、そこに東京で仕事をしていた僕よりも一回り年上のアートディレクターがデザインの中心になり、僕は彼に従事する形でアシスタントとして参加しました。

そこで僕は初めて「デザイナー」と「アートディクレター」の違いを知ります。今考えればお笑い話ですが、大学で美術を専攻し、卒業後は小さなデザイン会社しか知らないのですから、仕方ないですね。そのアートディレクター(AD)は、東京(神宮前)にある大手の出版社のエディトリアルデザインを行う会社でのADで、実家の都合で関西に戻ってきたばかりの方でした。

仕事や打ち合わせが終わると、夜な夜な(というかほぼ毎日)僕を含めて仲間数人と居酒屋に繰り出して「デザインとは」「ディレクションとは」を説教され、ついには「おまえは俺が面倒みてやるから、専属のアシスタントになれ」と言われ、そのファッション雑誌のプロジェクトが終わると、彼が勤務している会社にデザイナーとして就職しました。ようやくここで僕は人並みの給料をもらえることになります(笑)

森川くんの仕事は版下屋だよ

これまで南森町のデザイン事務所で教わったことしか知らない僕に、師匠は「森川くんの仕事は版下屋だよ。デザイナーはデザインをしなさい」と言われて、ディレクションを教えてもらいました。確かにこれまでの仕事は版下を作ることがゴールだったので、なんだか目から鱗の状態。その日から僕の仕事道具は、ペーパーセメントと写植と版下台紙ではなくなり、レイアウトペーパーとシャープペンシルだけになりました。

そして作業をする時間よりも、たくさんの雑誌を読む時間を増やせと言われ、手を動かす前に、どんな画面を作りたいのか考える時間を作れと言われました。そこからカメラマンやスタイリストやモデルに指示を出すADにならなくてはいけないと…。

そこで2年くらい師匠について仕事をしました。師匠の会社に勤務してからも毎晩酒を飲んでは、ベロベロに酔っ払っている師匠をマンションまで送り届ける日々(笑)。昼間はわりと真面目な師匠が、酒が入ると変貌するのにびっくりしました。

仲間と一緒に部屋を借りて独立した

師匠の会社で2年間勉強しましたが、2年後に勤務していた会社の東京支社が閉鎖になり、師匠が独立することになり僕も付いていくことにしたのですが、その段階でまたしても給料が大きく下がってしまい、なぜか仕事も大きな仕事ができなかったこともあり、また版下ばかり作っていたので、そろそろ潮時か…と思って辞めました。

その頃に、「そろそろ独立したい」と考えている同年代のデザイナーが何人かおり、最初のデザイン会社で僕に「おまえ、おれより先に辞めるなよ」と言った、先輩デザイナーに声をかけられ(先輩だけど一歳年下)、4人でアメリカ村の外れのボロボロのマンションを仕事場として借りることにしました。

4人というのは、2人のユニットがふたつという感じで、1つのマンションに2つのデザイン会社が入居しているという感じですが、それぞれはフリーランスとして確定申告していました。

そのマンションは正確には「北堀江」という場所で、アメリカ村から四つ橋筋という道路を挟んだ西側。かなり古いマンションなので家賃も安かったです。大家さんが「この部屋に前住んでいたのは間寛平ちゃんなんで、縁起がええよー」なんて言ってました。

いまGoogleストリートビューで見ると、かつで僕らのオフィスがあった場所は駐車場になっていました。寂しいですね。けど、毎日「とんかつ定食」を食べていた「大富士」は健在なので、こんど大阪に行ったら食べに行こうと思います。

そのオフィスは基本、4人のフリーランスの仕事場であり、近辺で仕事をしている彼らの仲間のデザイナーがしょっちゅう遊びにきていました。大抵は昼間ずっと麻雀をしており(笑)、麻雀を知らない僕は、ひとりで机に向かって、なんか浮いていたように思います。

さらにこの頃から、大学時代の友人とミニコミを作ろうと思い、その準備も忙しかった。そんな時代が1年ちょっと続いて、僕はさらにこの部屋を出て独立することになります。これまではユルい感じのオフィスにちょっと飽きていたので、今度はちゃんと「会社を作ろう」と思ったのです。

※ミニコミの記事は以下のリンクを参照してください
サウンド&ヴィジョンのこと


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