うつ病の最中、ロックバーをオープン
(前回の続き)2012年の12月、僕は躁鬱病を患い、その社会復帰としてロックバーを経営しました。明けた2013年の冬から物件を探し、友達のインテリアデザイナー「田中ハジメ」くんに、お店の図面を書いてもらい、さらに施工業者も紹介してもらい、2013年5月13日にプレオープン。僕と妻のりこは、ロックバーのオーナーになりました。
プレオープンのパーティでは、友達がどっさりと来てくれて、お祝いをしてもらい本当に嬉しかった。昔の大阪芸大時代の仲間や、仕事関連の人々が僕たちの店の開店をお祝いしてくれた。ちなみに、この店の名前は「シリコンカフェ」と云って、僕がコンピュータの仕事で独立した際のデザインオフィスの屋号。そして、この店はオープン当初「ダイニングバー」というコンセプトで、友達にシェフを依頼して、美味しい料理を出していました。
この店がオープンすることは、楽しいことばかりなので、少しはうつ病もよくなるかな…と僕も妻も思っていたのですが、楽しいはずのパーティでも後から見てみると、僕はお祝いに来てくれたみんなと殆ど話ができていない。一緒に写っている写真がないのです。
さらに、その後もボチボチと駆けつけてくれる友達や元仕事仲間の人々とのツーショットを見ていて、最近わかったのは、僕の顔がみんな同じ表情だということです。
人前に出れない、人と話せない
考えてみれば、うつ病が発症してまだ半年くらいのこと。そんなに簡単に完治するわけがないですよね…と今となっては思いますが、それでも、そんな僕のことを知っていて(病気のことも)、励ましに来てれたみなさんに対して、いま改めて、ただただ感謝です。
子供の頃から目立ちたがり屋で、大学からロックバンドのボーカルをして、数多くのセミナー講師で登壇、関西DTP協会や日本ウェブ協会の理事長で多くの人もの前に立ち、多くの人と話をしてきた僕が、自分のために作った店なのに、お客さんの前に出て行けなかったのです。
特に経営方針をダイニングバーからロックバーに変えてからは、僕はお客さんのリクエストに100%対応するDJをやっていました。それは妻のりこと二人っきりでお店を回しているときもずっとそう。
ある意味、僕はお客さんの対応よりもパソコンに向かい合うことに逃げていたのかもしれませんね。たぶん、きっとそうです。
その後のうつ病
その後、ロックバー・シリコンカフェは半年後の2013年の夏に閉店。同じ2013年の春から、このままでは食っていけない…と僕は新橋にある広告制作会社に就職をしていました。その会社の面接後の総務のお姉さんと話をして、社員は保険に入れるのだそうですが、僕は両極性障害を持っているのではねられました。
だが、この頃から僕はメンタルクリニックの薬断ちをはじめました。考えることは色々あったのですが、結局躁鬱病の薬(リーマス)を飲み続けてても、日常の生活がぼんやりするだけで、いいことがないのかも知れないと。
そして、ロックバー閉店のころ、かなり金銭的にやばくなってきていて、本気で仕事に取り組んで稼いでいかなくてはならなかったという気持ちが、鬱を乗り越えたのかも知れません。
とはいえ、ドクターに診断された時に言われた「躁鬱病は一生治らない」という言葉は、深く胸に刻まれており、その通りだと思います。
薬を飲まなくなって5年以上経過しますが、やはり年に何度かは「うつ状態」になることがあります。しかし、この5年の経験で「完治しない病気=うつ病」とうまく付き合う方法を、少しずつですが身につけてきている昨今であります。