躁鬱病を患った-1

うつ病は突然やってきた

それは2012年の12月。うつ病は突然やってきました。この年は自分史の中では大きな出来事があり、それは夏にいまの妻が離婚し、僕も長い別居の末に離婚。別に2人で申し合わせていたわけではないのですが、二人揃って独身になり、堂々と(笑)交際をしていた頃。仕事の方は日本ウェブ協会の理事長と、BAメガパワーズの取締役プロデューサー、横浜デジタルアーツという専門学校と多摩美術大学情報デザイン学科の講師をしていました。

さらに、夏から健康のために毎日有酸素運動として2時間のウォーキングと、自然食ダイエットで15キロ減。住んでいた場所も港区芝に引越しをして、すべて新家具を買い揃えてプライベートを楽しんでいました。自分自身すごく充実している思っていました。

暑い夏が終わり、冷たい風が街中を走り抜ける頃、帰路についている路上の上で、仕事上のお客さんからクレームの電話が入りました。実はそんなに思いクレームではなく、普通に謝罪すれば終わりそうな内容だったのですが、急に相手と話ている最中に、猛烈に息苦しくなり「すみません、あとから掛け直します」と電話を切り、自宅に戻ると、心臓がバクバクして呼吸が苦しい。そのまま玄関で倒れてしまったのです。

まさに気を失うという感じで、玄関で数時間倒れたあと気がつき、同時にクライアントに折り返し電話をしていなかったことを思い出すと、同時に全く関係ない他の仕事の締め切りのことを思い出し、またしても猛烈な不安が襲いかかってきて、そのまま這うようにベッドに移動。そして頭の中は猛烈な不安は、ぐるぐると螺旋状に渦巻き、もう終わってしまったような過去の苦い思い出も一緒に蘇ってくるのでした。

パソコンもスマホを触れない状態

ベッドの中で寝ていても頭の中は恐怖と不安がぐるぐる回っているだけ、動けない、ベッドから出れない。ましてや家から出ることもできない。心配なことは山のようにあるけど、確認するにもパソコンやスマホを起動させることも怖い。

その夜、妻が家にやってきて(この当時は妻も近所に住んでおり、通い妻のように毎日夕食を一緒に過ごして泊まっていったものです)。僕の異変に気がつき、色々と世話を焼いてくれたのですが、僕は彼女にすがるしかなかった。世界でたったひとり孤独になった気がして、それを救ってくれた彼女の存在に今でも感謝しております。

その状態が何日も続き、会社をはじめ、誰にも連絡をすることができず(妻に電話でお願いした)、まったく外部ともコンタクトができない(とにかく人に会うのが怖かった)、妻が「これは病気かもしれないかも…お医者さんに行こう」ということで、メンタルクリニックを調べてもらい、芝の自宅から歩いても行ける距離にある、慶應義塾大学の近所の病院に行きました。

双極性障害と診断される

そこで、血液検査とか問診とかを何度か繰り返し、僕は「躁鬱病=双極性障害」と診断されました(最初は「鬱病」だったのですが、最終的には躁鬱病と診断されました)。ドクターからは、こんなことを言われました

  • 躁鬱病は完全完治しない
  • 完治しないが薬を飲むことで症状を和らげることができる
  • だから毎日薬を飲まなくてはならない

この「躁鬱病は完治しない」と言われたのはショックでした。そして血液検査をしてリーマス(リチウム)ともう一種類の抑うつ薬、睡眠導入剤を処方されました。確かに薬は効果があり、飲むと面倒なことを考えなくなり、そして眠くなります。通院していた頃は、寝てばかりいました。というより、寝ている時が一番楽で、目が覚めるのが怖かったものです。

妻の介護

この頃は、まだ結婚はしていませんでしたが、今の妻がものすごく介護してくれました。介護と言っても、何もできない僕に変わって会社や取引先に連絡をしてくれたり、細かい手続きをしてくれた。そしていつも笑顔で「大丈夫だよ、元に戻るよ」と言ってくれた。そして僕を連れ出して、気分転換…と色々な場所に連れて行ってくれたのです。

明けて2013年正月、鎌倉で初詣
1月初旬に、京都大阪奈良へ旅行。新世界のずぼらやで、住さんと山本くんとてっちりを食う。
大阪のホテルで3泊。部屋にはゴンゾも来てくれたよ
3月にはラスベガスとサンフランシスコに旅行。
家を綺麗にして、僕の友達を呼んで夕食を楽しんだ。田中君は心配してなんども来てくれた。

いまでこそ、笑い話ですが、この期間妻は本当に心配してくれていて、まるで覇気のない僕を見てて「本当にこの病気は治るのか」と心配していたそうです。特にラスベガスとサンフランシスコに旅行した時は、全然元気のない僕を見ているのが悲しかったそうです。

そして、この期間「躁鬱病」として障害者手帳を受け取ることになります(ドクターが保険料のこともあり、ぜひ申請しなさいと言った)

ロックバーをオープンさせる

そんな中、僕自身もまったく仕事ができる状態ではなく、当時のことを思い出すと、またコンピュータで何かクリエイティブなことができるなんて、遠い先の話だと思っていました。また、その「仕事がしたくでもできない自分」が負のスパイラルに拍車をかけるのです。

そんななか、妻が「まさゆきができる仕事をすればよい」と言ってくれ、これまで、僕が「ロックバーをやりたい」とぼんやり語っていたことを「実現しようよ」と資金を出してくれました。

そして実際に、ロックバーはこの年の5月にオープンすることになります。

つづく

開店初日の写真。たくさんの写真を撮影したけど、僕はみんな同じ顔をしていました。

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