初ライブに向けて:PLANET CITY
バンドを再結成した僕たちですが、僕自身、今回のバンドはライブのための再結成ではなく。いわゆるパーティバンドではなく「ちゃんと音楽を作り続けたい」旨を伝えました。目前に迫った還暦ライブというイベントに備えていかなくてはならないものの、バンドの本質は「ちゃんと音楽を作ること」だと思っていたのです。
バンドを再結成した僕たちですが、僕自身、今回のバンドはライブのための再結成ではなく。いわゆるパーティバンドではなく「ちゃんと音楽を作り続けたい」旨を伝えました。目前に迫った還暦ライブというイベントに備えていかなくてはならないものの、バンドの本質は「ちゃんと音楽を作ること」だと思っていたのです。
この4人のバンド名をPLANET CITYと名乗ることにしました。大学を卒業してから作ったバンド名と同じですが、最初に作ったバンドでまだやり遂げていないことがあるので、人生最後のバンドでもう一度、これを名乗ろうと思った次第です。
ほぼ30年ぶりに会う昔のバンド仲間に、元気をもらったものです。ハジメありがとう。さらに僕とハジメと文田君で「とりあえずバンドやりましょうよ」というハジメの提案で、3人で何回かスタジオで練習したこともあります(このバンドはその後、僕がロックバーをスタートさせたことや、ハジメが香港に移転して仕事を開始したことで、自然消滅してしまったのですが)
僕が初めて参加したバンド「エンゼルアワー」から「プラネットシティ」「遊星都市」と振り返ってみたのですが、この20代のバンド体験は、無駄な趣味のようで実は、その後の人生の「モノつくり」に大きな影響を与えてくれたんじゃないかと思います。
ひとりになっても何故僕は平気だったのか。実はこの頃に新兵器を手に入れたのです。それはローランドのMC-500というシーケンサーです。上の写真がそうなのですがシーケンサーとは書いてなくて「マイクロコンピューター」と書かれていますね。
前のバンドは1年ちょっとで解散したのですが、僕にとってはやり残したことがたくさんありました。もちろん、オリジナル曲を作ることに目覚めて、初めて「自分のバンド」という満足感はあったのですが、やり残したこと…というのは「ライブ」だったのです。
バンド活動としては短い期間でした。やはりひとりだけ社会人で残りは学生…というのは時間の配分が難しい。結局1年ちょっとで解散したのですが、この期間で僕が作品を作り続けたことは、さらに後のバンドにも大きな影響を与えた期間でした。
ライブハウス出演や、他の大学の学園祭などにも出演し、この年は64回も僕たちはライブを行いました。そして1年前、谷くんが卒業したらどうしよう…という不安と同じものがエンゼルアワーを襲います。それは僕たち自身が卒業してしまうのです。
年が開けて1981年。エンゼルアワーとして活動当初からめまぐるしい変化をしてきた僕たちにも、年明けから4月に向けて、少しだけ陰りがやってきます。というのも、バンドの中心人物であり、全ての楽曲を作り、バンドのコンセプトやイメージを構築してきた谷くんが、3月で大阪芸大を卒業してしまうのです。
おかげさまで…というか、全力投入したからか、オーディションライブは合格で、これからバハマのハコバンとして毎月出演することが決まりました。さらに嬉しいことに、僕らを気に入ったバハマのオーナー(姉さん)が、通常バンドよりもチャージバックが100円高い「土日バンド」に指定してくれたのです。嬉しかったなあ…。
まあ「レコーディング」というのは大げさですが(だってレコードを作るわけじゃないので)、高品質なデモテープを作れるというわけです。さっそくツテやらコネやらを使って、彼のスタジオでデモテープを作ることになりました。彼の名前は「うーさん」と言います。
「バンドやろうぜ」と言われて「おう!やろうぜ」と言ったものの、僕自身、中学時代にはフォークギターを持っていて、そこそこにギターは弾けますが、手元に楽器が何もなかったのです。「じゃ、今から楽器買いにいくか」ということになり、なんだかわけもわからないまま、その足で楽器屋に行き、進められるままにYAMAHAのCS30というシンセを買ったのです。