ライブバンド・エンゼルアワー

ライブバンドとしての形を整える

いきなりのライブハウスデビューが東京渋谷の屋根裏、原宿クロコダイルだったエンゼルアワーですが、大阪芸大に戻り僕たちは、ライブハウス出演の熱に浮かされたのか、谷くんがライブバンドとして継続していこうということになり、オリジナルの三人(谷くん=Vo、くまさん=Key、わし=B)。そこに前回の東京ライブで参加したギターのコンチくん。足りないのはドラムスでした。

そこで、何のツテだったのか忘れましたが、同じ美術学科で神戸出身の一宮誠志くん(当時大学2年生)に白羽の矢を立てて彼を誘います。実は同じバンドになってからわかったのですが、彼も大阪芸大を一浪していて、受験のためにデッサンを学んでいたのが、僕と同じ予備校だったんですよ。

ちなみに、一宮君とは大学卒業後も一緒にバンドを続け、さらに35年後、僕がロックバーをオープンさせた時に再会しました。その時(今も)彼は、ドラムスではなく、なんとクラシックギタリストになっていて、ロックバーや結婚パーティでギターを披露してくれました。

そうそうライブバンドをすることになり、もうひとつ変化したのがベースです。それまで僕はシンセベースでステージに上がっており、数曲は知人にベースを借りて弾いていましたが、ちゃんと自分のベースが欲しくなり、またしても楽器屋に直行。

そこで購入したのがフェンダーのミュージックマスターというショートスケールのベースで、当時はトーキングヘッズのティナやフリクションのレックが弾いていて、なんとなくパンクというかニューウェーブな感じが気に入っていました。

この頃になると、シンセサイザーは全部くまさんの元に集められていました。

ただ、買ってきてからそのベースを見たうーさんが「モンタ、わしがパワーアップしてやるから、これを買え」と言われ、ディマジオのPマイクと、バダスのブリッジを買わされ無理やりベースに取り付けて、完全にオリジナルなベースとなりました。正直に言うとベースのサイズの割に、ディマジオというモンスター級のピックップをつけてしまったので、パワーありすぎでブースト気味だったんですが(笑)。それでもショートスケールであることが何よりも弾きやすく、とっても気に入っていました。

※残念ながらこのベースは10年後に盗まれてしまうのですが…

学園祭に3日連続出演する

…というわけで、5人編成のバンドとしてエンゼルアワーは本格的に活動をスタートしました。毎週1〜2回は、4時間くらいスタジオで練習するという猛練習ぶり。メンバー全員が大学の周辺のアパートや寮にいましたから、ほぼほぼ毎日誰かの家に集まって、バンドの話をしたり、楽器を弾いたり。今と違ってほとんど酒なんて飲まなかったなあ…なのに、あんなに楽しかったのは何でだろうと今となっては思います。

谷くん=Vo、くまさん=Key、森川=B、コンチ=G、一宮=Drになったエンゼルアワーとしての初舞台は、11月に行われた大阪芸大の学園祭でした。多分音楽工学学科の有志が借りたのでしょうけど、芸大の第二食堂の上にある野外ステージ。そこに機材を運び、PAはうーさんのスピーカーやらコンソールやらが運び込まれ、僕たちは3日連続出演をしました。

半年前の新歓コンパで演奏したテクノポップも、ドラムとギターを入れて再演しました。

演奏曲も、半年前にテクノポップでやっていた頃から、ガラリとアレンジが代わり、当時で言えばニューウェーブなサウンド。ヴァージンVSをはじめとしてPモデルやリザードに近い音、海外ではウルトラボックスやXTCみたいな感じだったと思います.

さらに5人編成になってから、谷君がすごいスピードで新曲を作ります。そして自分たちのバンドのことを褒めてしまうのもアレですが、全部名曲ばかり。ちなみに以下に貼り付けたSoundCloudの音源は、この芸大祭から半年後、谷くんが卒業して4人になったエンゼルアワーの時のものです(ちなみに僕はベースを弾きながら歌ってます)

アマチュアコンサートで注目を浴びる

芸大祭での演奏は、自分たちでも満足できるもので、さらに僕たちはライブに出演する機会を探っていました。同時にライブハウスにも、芸大祭の音源を聞いてもらいオーディションも受けました。もちろん今まで通り、毎週1〜2回はスタジオで4時間練習。そのため、僕たちはいつもお金がなく、スタジオ代を稼ぐためにずっとバイトをしてました。

はじめての大きなホールでの出番前なのに、ぜんぜん緊張していないエンゼルアワー

そんな中、いつも練習している楽器屋さんから、こんなコンサートあるから出てみたら…と言われ、住之江区民ホールで行われたコンサートに出演することになりました。いわゆるアマチュアコンサートで、みんなでチケットを販売して出演する…みたいな伝統的な手法のコンサート。主催者は近畿大学の軽音部だったような記憶があります。

出演するバンドは5〜6バンドで、ワンステージ30分程度。この頃になると僕たちはオリジナルが12曲以上あり、厳選した曲で30分の構成をしました。さらに主催者に掛け合って、一部PAを持ち込むので使わせてもらえる許諾をもらいました。

そこで出番は、僕たちのバンドの6人目のメンバーとも言ってよい、うーさんの登場。芸大祭で使ったPAスピーカーを2台持ち込んで、会場の後ろに配置しました。そして僕たちのステージの時だけ、うーさんにPAのコンソールを担当してもらうという段取り。

出演するアマチュアバンドは、大学や高校の軽音サークルから来ていたようで、僕たちを覗くと全部が、コピーバンド。午前中のリハーサルでTOTOやディープパープルやドゥビーの曲が、違うバンドで被っていたほど。

PAの持ち込みもさることながら、迫力出して他のバンドにプレッシャーかけよう…となぜかローランドのモジュラーシンセサイザーや、ボコーダー、オシロスコープ(音の波形を投影)まで持ち込んじゃうエンゼルアワー

僕たちのステージは、ラストから一つ前。とにかく半日かけて行うコンサートなので、自分たちの目当てのバンドが終わると、帰りはしないものの会場から出て、ロビーで話している客が多い。

そんななか、僕たちがステージに上がって演奏を始めると、会場の中にいた高校生がロビーに出てきて「おい、なんかすごいことやってるで」と仲間を呼びに来たらしいです。そして専属のPAである、うーさんの仕業で(笑)、圧倒的に他のバンドと音圧が違っており(僕たちだけ会場後方に設置したスピーカーを使っていましたし)、最後に盛り上がる曲では、4チャンネルスピーカーにフランジャーをかまして、ジェットサウンドでぐるぐる音を会場に回していたほど。

コンサートが終わって、主催者のお兄ちゃんの態度が変わっているのが面白かったです。「あんたらすごいなー」と言われ、僕たちも満足度100%。

バハマのオーディションに受かる

さあ、今度はライブハウスに進出しようということで、ライブハウスに積極的にデモテープを送り、最初に決まったのが大阪のライブハウス「バハマ」です。バハマは何人ものプロのミュージシャンを輩出した歴史ある場所。大げさに言えば、ロンドンのマーキーとかNYCのCBGBみたいな感じ。

バハマの初回は、オーディションライブという位置付けで、この演奏でライブハウスがバンドの能力を査定するというもの。もちろん僕たちも、それを知っていたので、今まで以上に練習して、新曲も増やし、さらに初回オーディションライブにも、専属PAうーさんに出動してもらいました。それが1980年の12月。

バハマには常設のドラムがないので、ドラムセットまで持ち込みます。「今日もライブ日和だがやー」って感じの谷くん
ライブハウスにはバンド機材以外にも、うーさんのPA関係の秘密兵器も持ち込み。音響担当のバハマのお父さんとうーさんは仲良くなったみたいです。さらに工事現場の黄色い電灯まで持ち込んだのは、意味がわかりませんが(笑)

おかげさまで…というか、全力投入したからか、オーディションライブは合格で、これからバハマのハコバンとして毎月出演することが決まりました。さらに嬉しいことに、僕らを気に入ったバハマのオーナー(姉さん)が、通常バンドよりもチャージバックが100円高い「土日バンド」に指定してくれたのです。嬉しかったなあ…。

たしか、このライブが12月。もうすぐ1980年も終わり、新しい年がやってきます。そして新しい年を迎えると、エンゼルアワーは初の試練を迎えることになるのです。

つづく


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