3つめのバンドは遊星都市
前のバンドは1年ちょっとで解散したのですが、僕にとってはやり残したことがたくさんありました。もちろん、オリジナル曲を作ることに目覚めて、初めて「自分のバンド」という満足感はあったのですが、やり残したこと…というのは「ライブ」だったのです。
前のバンドは1年ちょっとで解散したのですが、僕にとってはやり残したことがたくさんありました。もちろん、オリジナル曲を作ることに目覚めて、初めて「自分のバンド」という満足感はあったのですが、やり残したこと…というのは「ライブ」だったのです。
バンド活動としては短い期間でした。やはりひとりだけ社会人で残りは学生…というのは時間の配分が難しい。結局1年ちょっとで解散したのですが、この期間で僕が作品を作り続けたことは、さらに後のバンドにも大きな影響を与えた期間でした。
ライブハウス出演や、他の大学の学園祭などにも出演し、この年は64回も僕たちはライブを行いました。そして1年前、谷くんが卒業したらどうしよう…という不安と同じものがエンゼルアワーを襲います。それは僕たち自身が卒業してしまうのです。
年が開けて1981年。エンゼルアワーとして活動当初からめまぐるしい変化をしてきた僕たちにも、年明けから4月に向けて、少しだけ陰りがやってきます。というのも、バンドの中心人物であり、全ての楽曲を作り、バンドのコンセプトやイメージを構築してきた谷くんが、3月で大阪芸大を卒業してしまうのです。
おかげさまで…というか、全力投入したからか、オーディションライブは合格で、これからバハマのハコバンとして毎月出演することが決まりました。さらに嬉しいことに、僕らを気に入ったバハマのオーナー(姉さん)が、通常バンドよりもチャージバックが100円高い「土日バンド」に指定してくれたのです。嬉しかったなあ…。
まあ「レコーディング」というのは大げさですが(だってレコードを作るわけじゃないので)、高品質なデモテープを作れるというわけです。さっそくツテやらコネやらを使って、彼のスタジオでデモテープを作ることになりました。彼の名前は「うーさん」と言います。
「バンドやろうぜ」と言われて「おう!やろうぜ」と言ったものの、僕自身、中学時代にはフォークギターを持っていて、そこそこにギターは弾けますが、手元に楽器が何もなかったのです。「じゃ、今から楽器買いにいくか」ということになり、なんだかわけもわからないまま、その足で楽器屋に行き、進められるままにYAMAHAのCS30というシンセを買ったのです。
後半の「 Once there were mountains on mountains」あたりから、暗転だったステージに明かりが点り、「これはコカインでラリってる場合じゃねえぜ!」と叫ぶあたりで、ステージの上の照明にすべて明かりが灯るのです!
中学2年の秋、やっとの思い出買ったのがT-レックスの「スライダー」。これが僕が購入した初めての洋楽アルバム。どうですか、このアルバムジャケット。これぞグラムロックという感じですよね。T.レックスと言えば、ちょっとハードなロックンロールのイメージがあるので、アルバムもギンギンのロックンロールと思いきや、実はそうでもない。
我が家には現在トーカイのテレキャス、フェンダーのテレキャス、オベーションの12弦。そしてショートスケールのベースが一本…というのが、弦楽器の環境。これらを使ってどんな楽曲を作っているのかは、また後日ブログに書きますね。
そんな僕が音楽に目覚め始めたのは、小学校6年から。少しだけ早く僕はラジオを聴く子供になっていて、そこでかかっている洋楽に心を惹かれていきました。かった順番は覚えていないけど、ドーンの「ノックは3回」、中学校1年の夏休みに見た「小さな恋のメロディ」。
自分の体感的にグループサウンズが流行していたのは、1967年から1968年。小学校の3年・4年という感じです。クラスの中でもグループサウンズに夢中になっているのは、ほぼほぼ女子(あたりまえ)で、僕は男子の割にはグループサウンズを応援していたように思う。
音楽が素晴らしい。全体に管楽器を中心にしたオーケストラレーションが素敵すぎる。間奏のメロディなんて、「いつかこんな曲を作ってみたい」と今でも思います。特に間奏の最後のホルンの音が最高です。そしてメロディがなんとも切ない。途中の「微塵がくれだ火炎の術だ」の部分では、胸が締め付けれられませんか?