愛知県稲沢市のこと

1966年から愛知県稲沢市に住む

こちらのページにも、個人の年表のようなものを掲載していますが、改めてもう一度掲載しておきます。

  • 1958年(昭和33年):大阪府茨木市に生まれる
  • 1963年(5歳):広島県広島市に住む
  • 1965年(7歳):名古屋市千種区に住む
  • 1966年(8歳):愛知県稲沢市に住む
  • 1971年(13歳):神奈川県横浜市に住む
  • 1974年(16歳):兵庫県西宮市に住む
  • 1976年(18歳):大阪府吹田市に住む
  • 1989年(31歳):兵庫県芦屋市に住む
  • 2000年(42歳):東京都小平市に住む
  • 2007年(49歳):東京都港区に住む
  • 2015年(57歳):東京都渋谷区に住む

愛知県稲沢市に住んだのは小学校の1年生の3学期。それまでは同じ愛知県の千種区だったのですが、名古屋支店に勤務していた父が、会社の社宅が新築されたのでそこに入居したのです。社宅といっても普通の一戸建て。稲沢市の緑町というところで、そこは奥田団地と呼ばれていました(コンクリの団地ではなかったのですが、当時新興住宅街を団地と呼んでいたようです)

周囲は田んぼと畑ばかりのど田舎

その稲沢市は名古屋市内からは名鉄で数駅、15分という立地なのですが、それまで住んでいた場所にはなかった、田んぼや畑やあぜ道や肥溜めなどがあり、まさにど田舎。

けれど、小学校時代を過ごすには、その辺を駆けずり回ったりするのに最適な環境だったのかも知れません。秋になると稲刈りが終わった藁を田んぼに積み上げてあるので、そこにダイブしたり。用水路でザリガニを釣ったり、カエルの口のなかに2B弾を突っ込んだり。さらに新興住宅地なので、建設中の戸建や空き地がたくさんあり、子供達に秘密基地を作る条件が揃いまくっていました。

近所で僕たちが遊びに行く店と云えば、本屋が一軒、文房具屋一軒、あとはスーパー(というか公設市場)の角にあったお好み焼き屋。飲食店は中華屋と寿司屋とうどん屋とラーメン屋だけ。それ以外はバスに乗ってヨシヅヤというデパートに行ったり、自転車に乗って駄菓子屋とかレコード屋に行ったものでした。

いま考えればとても不自由な感じがしますけど、当時は何も不自由に感じなかったし、満ち足りていた。それは友達がたくさん居て、いつも誰かと遊んでいたからなんでしょう。

小学校も中学校も(中学は1年生の2学期の最後までいました)、田んぼの中を30分も歩いて通っていたものです。まるで清志郎の歌のように。

5段変速フラッシャー付のケッタマシンに乗って

上に貼った清志郎の歌はRCサクションの初期に作った曲らしく、僕はこの曲を「ヤングインパルス」という番組で観ました。清志郎が歌うように、友達もたくさんいたし、いろんなものが明るく見えていたような気がします。イタズラや喧嘩もしたけど、毎日が新しくて平和だったような気がします。疑ったり誤魔化したりなんてしなかったような気がします。

でも、それは小学生から何年も経っているからそう思うだけなのかも知れません。小学生は小学生で、悩みや嫌なこともあったような気もします。ただ今のように憂鬱な出来事や、陰険な人間関係は少なかったような気がします。気がするだけかも知れませんが。

そして何よりも、毎日走り回れる丈夫な体があった。狭い街も5段変速で、フラッシャー付という、意味不明の電飾がついている自転車に乗ってどこまでも行けた。ちなみに愛知県では自転車のことを「ケッタ」と云います。これに乗ってレコード屋やプラモデル屋やプールに行った。時には隣の一宮市まで遠出をしたこともあった。

そんな稲沢の街並みを7年前の2012年前に、再訪したことがあります。とある仕事(ロケ)で岐阜の方まで行ったので、その帰りに寄ってみたのです。

稲沢市の国府宮という駅から、僕の住んでいた街まで1時間くらいかけて歩いたのです。駅に降り立った時に、子供の頃の街にもう一度会えると期待に胸を踊らせていたのですが、当然のように50年以上前の記憶と現実は大きく異なっていました。

当たり前ですが国府宮のバスターミナルにはジュークボックスはなかったし、おかんにたくさん漫画の本を買ってもらった本屋も店を畳んでいました。

はじめてレコードをかったレコード店は開いていましたけど(笑)、その横の自転車屋も店を閉めてました。僕はここで5段変速フラッシャー付のケッタを買ったのです。もう一軒のレコード屋も閉めてたし、二軒もあったプラモデル屋も跡形すらありませんでした。

さらに僕が住んでいた奥田団地に入り口にあった日の丸スーパーという市場は、出店している店がほとんどなくって、角のお好み焼き屋さんもコインランドリーになっていて、みたらし団子を買うことができませんでした。

なんだか少し悲しい気持ちになって、僕の住んでいた家を探してみると、そこは更地になっていて、友達の家も数軒表札が変わっていたのです。50年もすれば当然なのでしょうけど、やはり寂しいですね。

大筋で住宅地は同じ雰囲気だったのでちょっと嬉しかった…のですが、そこに流れている空気が、当たり前ですが小学校の頃とは全然違っていて(おそらく身長の変化もあるから目線も違う)、複雑な気持ちでした。

だけど、今でも僕が過ごした土地が今もある…というのは嬉しいことです。今度は小学校まで行ってみようかと思います。いつになるかわかりませんが。


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