見栄えをかっこよくすることがデザイン?
このページに掲載した文章は、僕が先月まで在籍していたエクサート株式会社のブログに書いていたもので、この個人ブログにも転載します。以下エクサートブログのまま。
みなさんは「デザイン」という言葉から何をイメージしますか。実は今日もサカナさんに「自社サイトのテキストは書き終わったので、あとはデザインを進めてください」と言われました。つまり、この場合のデザインは「見栄え良く画面の体裁を整える」という意味で、実際にわたしも「今回は僕がデザインするよ」と言うときは、IllustratorやPhotoshopを使って画面を作ることを指しています。
わたしは、美大で美術を学んだあとに初めて就職した会社がデザイン会社でした。そこでは文字通りデザイナーとしてパンフレットやチラシやポスターを作っていました。その当時「デザイン」というのは、画面の中で要素をバランスよく収めて、かつ見る人にインパクトを与えることだと、色々な工夫をしていました。要するに自分なりに「かっこよくしたい」という欲望があったからです。そして、デザインが仕上がって同僚や上司に見せ、「なかなかよいデザインだね」と言われると得意になったものでした。
今思えば「よいデザイン」と言われるために、デザイナーは本来やるべきことである、「サービスや商品の情報を伝える」ことよりも、一発芸のごとく、見た目にインパクトを与えて斬新なことをしたい…などという自己満足のために仕事をしていたのかもしれません。未だにデザイナーの中の幾人かは、自分の作った成果物を「作品」と呼ぶのは、思い上がった自己満足と自己顕示欲があるからでしょう。
デザインは目的を達成する手法
そんなわたしに、大きな転機が訪れたのは30歳になった頃、大丸百貨店の通信販売カタログのクリエイティブディレクターに就任したことです。クリエイティブディレクターというのは、自分たちチームで作るクリエイティブにすべての責任を負う仕事です。そこにはページのデザインやレイアウト以外に、撮影手法(撮ラフ)、カメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、モデルへの指示。さらにはコピーライターへの指示までも責任を負って行わなくてはならないのです。
その責任とは何でしょうか? 通信販売のカタログはお客さまに購入していただいて成果が出ます。ですから、前回よりも売れる写真撮影、レイアウト、さらには購入後のクレーム返品がないようなコントロールまでが責任の範囲です。そうなると、私たちも必死になってクリエイティブワークに取り組みます。その取り組みとは、かっこいいものを作ることではなく、ではなく売り上げが伸ばすデザインを行うことなのです。つまり、どんなにかっこよいデザインでも、モデルばかりが目立つ写真や、読めない英語のキャッチフレーズなどは「間違ったデザイン」なのです。
そう考えると、修行時代に同僚や上司が「今回はいいデザインだったね」と言われたことに対し、それは何を根拠にしているのだろうかと疑ってしまいます。わたしが、この体験で信じたものは「データ」でした。すなわち掲載する紙面の面積に対しての売り上げと、返品率。
例えば同じような婦人物のスーツを日本人と外人のモデルで撮影してみる。どっちが売れるか? あるいはロケで撮影するものとスタジオのホリゾントで撮影する。どっちが売れるか? 色違いのタンクトップを畳んで撮影するか、モデルで撮影するか。どっちが売れるか? などなど、機会があるごとにテストをして販売数を比較します。そうしてデータを積み重ねることによって、結果の出るデザインが生まれるのです。
それは時として撮影現場のデザイナーや、カメラマンやモデルからブーイングが起きることもあります。なぜなら彼らは「かっこいい写真」を撮影したいからです。そんなトゲトゲした現場で(笑)ヘアをひっつめにして衣服を目立たせて、商品以外のアクセサリーを外す指示を出します。またカタログの制作は、夏に毛皮やコート、冬に水着を撮影することがあります。スタッフは当然、海外ロケを行きたそうですが、ロケをすることで商品が売れないことが、データで解っていれば中止。目的達成のためにばっさりと自己満足なクリエイティブを切り捨てるのがクリエイティブディレクターなのです。
デザインを「設計」という言葉で置き換えてみた
さらにそこから時代は移り変わり、わたしはウェブデザインの現場にいました。以前に通販時代に経験した意識。すなわちデザインとは目的を達成することという意識はウェブでも大いに役立ちましたが、カタログという一方通行の媒体から、インターネットの海の中から情報を探して、自分から欲しいものを手に入れるために画面を操作する、というインタラクティブな世界に飛び込むと、判断に迷うことがたくさんありました。
例えば印刷物というカタログを作っていた頃は、成果物を仕上げるために向かい合っていた製版屋さんのような専門家に依存することが多く、自分たちではコントロールできない工程あります。そうした直接制御できない工程が、ウェブ制作には数多く存在しています。
例えば、エンジニアという職種の方とのやりとりは当初はとても大変で、システムとして正常に動くことが正義と信じている彼らに「もっと使いやすくしてください」という要求は「守備範囲が違う」と撥ね付けられたことも少なくありませんでした。さらにカタログという印刷物は、手にとってページをめくることで、「商品を選ぶ→購入する」という工程が直感で理解できますが、ウェブは複数のページの集合体なので、顧客を目的のページまで誘導するという情報の設計なども加わってきます。
この頃から、わたしの中ではデザインと言う言葉は「設計」という単語で脳内変換をしていました。これまでは視覚設計がデザインだと思っていたのですが、それだけではなく情報の設計、構造の設計、画面の設計、技術の設計。すべてがデザインという言葉で置き換えることでしっくりきたのです。すなわち設計とは問題を解決する手法なのだと今は思っています。
2000年のアメリカ映画に「スペースカウボーイ」という年老いた元宇宙飛行士を描いた作品があります。彼らは旧ソ連の通信衛星の故障を修理する為に、再びパイロットチームとして集めらたメンバー。わたしは人工衛星の設計を担当した、主役のクリント・イーストウッドが「I am designer」と名乗るシーンがとても好きでした。設計した人間だからこそ、人工衛星のトラブルに対して細部まで問題点を特定することができるのです。