プラネットシティ

大学卒業間近、鬼の様に曲を作り始めた

前回の続き)大阪芸大の2年間、ずっとエンゼルアワーというバンドに集中していた僕は、1981年12月のラストライブの後も、音楽を続けたいと考えていました。そしてその時考えていた「新しいバンド」は、これまでのエンゼルアワーとは違う形にしたかった。

エンゼルアワーは、バンドを作った谷くんの曲がライブでの8割を占め、残り2割を谷くんが抜けたあとの5人のメンバーで作っていました。新しいバンドでは全部新曲で構成したいと考えていたのです。要するに新作を作らなくてはならないということです。

年が開けて1982年1月。前年の学園祭で知り合った彼女と、一緒に僕は新曲に取り組みました。まず何をしたかというと、作品を残すための機材の購入。メインの機材はカセット4トラックレコーダーの「フォステクス250」

これは4トラックを個別に録音することが可能なカセットテープレコーダーで、3トラックが埋まれば、それを空いたトラックにミックスダウンしてまとめることができる…というスグレモノ。多重録音を趣味にしている人には当たり前のことなのですが、この画期的な仕組みに、僕は取り憑かれたように、毎日新曲を作り続けたのです。

さらに曲作りの核に購入したのが、コルグ「ポリシックス」というシンセサイザー。エンゼルアワー時代に単音しか出ないシンセをかき集めていた苦労が、これで吹っ飛びます。音色のほうも、エンゼルアワーで使っていたコルグラムダのようなストリングスから、金属系の音まで多様に作り出すことができ、作った音はプリセットで32音色を登録できるのです。

このメイン機材に、ドラムのトラックとしてローランドのTR606というリズムマシーンを導入(これは彼女が購入した)。エンゼルアワー時代に使っていたドクターリズムは。どっちかというと個人練習用のチープなマシン(そのチープさがよかったのですが)、これがバスドラ、スネア、ハイハット、タム、シンバルと個別にプログラミングができ、複数のパターンを登録し1曲に仕上げるもの。ライブには不向きですが、レコーディングには強力な戦力でした。

この時代に新曲を20曲くらい作った

まだ大学4年生で、卒業までの3ヶ月間。ほぼ毎日僕はこれらの機材を駆使し、新曲を作り、それを録音していました。

その当時の音源が残っているので、ここで公開しますね。

書き出すとキリがないので、この辺にしておきますが…(笑)。最後の曲は、エンゼルアワー時代の曲で、1曲だけ谷君の曲をカバーをしました。その上の曲「Good-Bye」はNHK-FMの坂本龍一さんの「サウンドストリート」という番組の「デモテープ特集」で流してもらったことがあります。

とにかく僕にとっては2年前にエンゼルアワーをスタートさせた時の「創意工夫」が蘇ってきた楽しい3ヶ月間でした。

このバンドはどちらかと云うと、僕のソロ活動を手伝ってもらった…という印象が強い。全ての曲は僕が作ったし、バンド名から世界観も僕が考えた。ちなみにバンド名は現在(2019年)やっているPLANET CITYと同じ、カタカナの「プラネットシティ」と名乗ってました。

その後、春になって大学を卒業してからは、同じく大阪芸大の学生たち(ほとんどは2年生)とバンドを組み、ライブも行いました(このページの先頭の写真…なぜかアルバムにはバラバラにコラージュしたものしか残ってなくてすんません)

バンド活動としては短い期間でした。やはりひとりだけ社会人で残りは学生…というのは時間の配分が難しい。結局1年ちょっとで解散したのですが、この期間で僕が作品を作り続けたことは、さらに後のバンドにも大きな影響を与えた期間でした。

つづく


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