アートディレクターの頃

これまでの流れ

大学を卒業してレコード屋に勤務した→
レコード屋を退職してデザイン会社に勤務した→
デザイナーとして独立して仲間とオフィスを借りた→
デザイン会社を作って倒産させた→

大学を卒業してグラフィックデザイナーになって6年。自分の会社を作って社長になりましたが、その後倒産。僕は三十路を前に1,500万円の借金を抱えていました。しかし凹んでいても借金は返せないので、知り合いのコネとかツテを頼って、返済のためになるべく給料の高い会社を探していました。

そんな時、先輩のライターが新大阪にある写植屋さんが、これまでの写植だけの分野から上流工程のデザインまで仕事を拡充したいので、アートディレクターを探しているとのことで、さっそく面接に行きました。こういう時の面接は、ハッタリかまして盛るのが一番、実際に僕はアートディレクターの仕事なんて、ほとんどしてなかった(それだけ大掛かりな仕事がなかったから)のですが、自信はあったのです(ハッタリですがw)

そこで、めでたく採用となり、当時はけっこうな金額である月給30万円をゲットすることができました(万歳!)。…でやる気満々で会社に通っているのですが、やはり所詮は「写植屋」さんなので、デザインの仕事なんて降りてこないのです。毎日会社に通うものの、やることがないのです(苦笑)。今のようにデザインツールがコンピュータであれば、情報を集めたり、写真やイラストを整理したりできるのですけど。

横断歩道でヘッドハンティングされる

そこそこ給料をもらっているのに、申し訳ない…という気持ちで会社に通うのがプレッシャーになりかけた頃。西中島南方の交差点で、頭の禿げたおっちゃんが僕に話しかけてきました。この人は同じグループ系列のプランニング会社に居る営業のような人で、どっちかと言うと「怪しい系w」で、若い連中からは「越後屋」なんて呼ばれていました。

「君、森川くんだろ、仕事は面白いかい?」
「いやー、デザインの仕事が全然なくて申し訳ないんですよー」
「実はこんど、新しい会社を作るんだけど、アートディレクターを探しているんだよ」
「へえ、面白そうですね」
「そこで、森川くんにもぜひ来てもらえないかと思ってね」

…となんと路上でヘッドハンティングされてしまったのです(爆)。

大丸百貨店通販チームのための新会社に参加

さっそく面接に行くと、そこには数人のクリエイターが集まっていて、ニコニコして僕を迎えてくれた。このプロジェクトは先に「仕事ありき」で社員を集めて会社を設立という流れだったようで、ほとんどが越後屋wのパイプで繋がった外人部隊というか傭兵のような会社だったのです。

そして、その仕事というのは大丸百貨店の通販部門の売上強化のために、新しいメンバーを集めて取り組むということで、プロジェクトとしては3つ。年に4回発行されるカタログ、毎月発行する新聞折込チラシ、請求書に同梱するチラシ。チラシと云っても、B1の巨大な印刷物であります。それぞれにデザイナーとコピーライターが配属されます。

そのチームをまとめるプロデューサー(僕より一回り年上)が1名を加えて合計13人の大所帯。僕はカタログチームの配属されてアートディレクターを任されました。僕のチームには僕を含めてデザイナーが4人、コピーライター2名という体制。当初は僕の上に別のADが居て、会社の設立に関わっていたのですけど、プロジェクトが始動すると、抜けられてしまい、結局僕がデザインのトップに座ることに。

大丸ホームショッピングのカタログ、年四回発行

さらに1年経過すると、コピーライターが僕よりも年齢が上だったこともあり、プロデューサーの配慮で、アートディレクターからクリエイティブディレクターに昇格させてもらいました。

この年4回のカタログというのが、けっこうハードなスケジュールで、最初の1ヶ月はバイヤーの商品選定会があり、それを元に撮影ラフを作ります。次の1ヶ月は、まるっと撮影、そして残りの1ヶ月でフィニッシュと製版という工程。

僕がメインで担当していた婦人服のページ

ここでの仕事は、ある意味、これまでの仕事の中で一番ハードなスケジュールで動いていましたが、反面これまでの仕事の中で一番楽しく、充実した時期でした。

この頃は、とてもハードな仕事で、朝から終電(時々徹夜)で、びっちりカタログ作りに頑張ってました。

つづく


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