サウンド&ヴィジョンと並行して作ったレコード
僕たちが作ったメディア(ソノシートマガジン)は、たった三冊で幕を閉じてしまいましたが、この時代に並行してインディーズのレコードをプロデュースしていました。というのもサウンド&ヴィジョンで色々なアマチュアのインディーズバンドをプロデュースしていると、これはレコード出したら売れるんじゃないか…と思うような瑞々しいバンドとたくさん出会ったからです。
そのレコードの最初は大阪芸大在学中の大学生バンド「SOFT」というテクノというかエレアコというか、そんな感じのバンドで彼らの方から、うちのオフィスに売り込みに来ました。リーダーのおかっぱの男の子が「僕たち鈴木慶一さんの水族館レベールの新人発掘シリーズ第1弾に選ばれたんです」と熱く語るので、僕も助平心で「これは売れるかも」とプロデュースをしたのです。プロデュースというよりはパトロンですね。音にもジャケットにも口を出せず、勝手にレーベル名まで作ってましたから(苦笑)。
結果的には、インディーズとしてサウンド&ビジョンの流通に乗せて販売しましたが、結果は惨敗。これだったら自分のバンドのレコード出しておけばよかった…と反省したものです。
だけど、このSOFTでベースとギターを弾いていたのが高橋幸宏のプロデュースでメジャーデビューした高野寛さんだったのです。YMO、高橋幸宏、細野晴臣という、ごっつい人々のステージでギターを弾いているので、みなさんご存知ですよね。
SOFTのレコードが一段落したとき、高野君個人が僕のオフィスを訪れて、個人で制作したデモテープを聞かせてくれ「可能なら、僕のソロを出したいのですけど」と遠慮深く言ったのですが、残念ながらその頃には、サウビやSOFTの失敗で経営が悪化していて実現できなかったのですが、その半年後に彼はメジャーデビューするので、なんだか運に恵まれていなかったなあ…と思います(笑)
ダシオがプロデュースしたパンクオムニバス
そして、性懲りも無く続けてリリースしたのが、この「LAST PANK OSAKA」なのです。サウンド&ヴィジョンでパンク系のミュージシャンの取材をしていたダシオくんが、見つけてきたバンドで、これがなかなか素晴らしかった。
収録されているのは、S.O.B、BRUTUS、OUTO、DITHER、THE RIOT、DOROROの6バンド。この当時の関西の…というか日本のハードコアパンクのリアルな姿があると思います。これは本当によいレコード。僕は初期のクラッシュを思われるTHE RIOTが好きでした。
アルバムジャケットの撮影は、かっちゃんにお願いして参加バンドメンバーを朝の6時に心斎橋通りの戎橋(通称ひっかけ橋)に集合。夜の喧騒があけてゴミだらけの戎橋にハードコアパンクバンドが集まっている姿は、圧巻でした。
アートディレクションは僕がやったので、橋のたもとにメンバーを集めて、カメラに向かって全力疾走してくださいというオーダーに、若きパンクスは何度も全力でダッシュしてくれました。
なにしろ朝の6時に心斎橋集合なので、少し遠方のパンクスは朝まで酒を飲んで過ごしていたらしく、何度も全力疾走させたのでゲロを吐きそうになっているパンクスもいたのが印象的(さらに通りがかりの自転車に乗った兄ちゃんが、何がおきたのかびっくりして振り返っているのがワロスw)
このレコードはそこそこ売れたようなのですが、残念ながら流通を終えて売り上げを回収する頃には、僕の会社が倒産していて(というか夜逃げのような会社じまい)、売り上げを回収できず(それより借金まみれになった自分自身を立て直すので必死だったので)、参加してくれたメンバーにギャラの分配とかできなかったのが心残りです。
三芳菊酒造の馬宮さんがCDを作ってくれた
3年ほど前に、とある仕事で四国の徳島県、三好市の三芳菊酒造という造り酒屋さんを訪問しました。そこの杜氏の馬宮さんという方が、日本酒を作る側ミュージシャン(というか、サウンドエンジニア?)をされていて、昔話をしているうちに、彼もハードコアパンクバンドをしていて「僕、LAST PANK OSAKAというアルバムを出したことがありますよ」というと「え!え!ええ!」ということになり(笑)。
その後、彼が所有していたレコードから盤を起こして、プライベートCDを作ってくれました。できればまた再発したいね…なんて話しているのですが、当時の会社が倒産していたり、版権も複数のバンドにまたがっているので、難しいかもしれないですね。
ただ、このレコードを作ったときのバンドとのアカウントを持っていたダシオ君は、最近東京に引っ越してきたみたいなので、今度酒でも飲んでみようかと思ってます。