ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ/イーノ(6/31)

今回アルバムを選ぶのに苦労しました

ロックアルバム31」の6人目のアーティストは、ブライアン・イーノと決めていた。だがアルバムを選ぶ際に大きく悩んだ。それは、イーノの1stアルバムである「ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ(1974)」と3枚目のアルバム「アナザー・グリーン・ワールド(1975)」だ。

結局今でもずっと聴き続けているのは「アナザー・グリーン・ワールド」なのだが(笑)あえて「ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ」を選んだのはブログにする際にジャケットが派手だから…というどうでもよい理由。まあそんなもんです。僕のブログは(笑)。なので、今回はたぶん2枚とも思い入れを書いてみたいと思っている。

イーノとの出会いは1978年頃

僕がイーノを意識するようになったのは、一浪して美大に入学した1978年。浪人時代にやっと本格的なステレオを購入した僕は、大学に入ってから狂ったようにレコードを買っていた。最低でも毎月10枚は手に入れていたように思う。最初にロックに興味を持った中学二年(1972年)から、その間の遅れを取り戻そうと思っていたわけではないが、毎月ばんばんレコードを買っていた。

さらに、その1978年というのはロックの歴史の中で、パンク、ニューウェーブ、テクノなどの新しいアプローチが冷蔵庫の裏のゴキブリのようにワサワサと登場していたので、レコード購入熱な止まるわけがない。

なかでも必死になってレコードを買い求めていたのが、デヴィッド・ボウイ で、1977年にリリースされたヒーローズ(英雄夢語り)までの12枚のレコードは全部買い求めた。そして「IV/レッド・ツェッペリン(5/31)」でも書いたようにZEPやプログレ、そしてボウイやT.レックスを軸とする、グラムロックやロンドンポップなレコードを次々に買い漁った。

その中にロキシー・ミュージックがあった、実は中学二年生でロキシーの存在は、毎月買っていたミュージックライフで知っていたが、音は聞いたことがなかった。レコードの買えない中学生とは、そういうものである(笑)。当時のロキシーミュージックは「グラムロック」と位置付けられていたので興味はあったのだが。その中でひとりだけ、頭の禿げた女装のイカれた奴がいる…と思っていた。それがイーノなのである。

Brian Eno 1971 1977 The Man Who Fell To Earth

当時のイーノは美術学校でアートを専攻する傍ら、現代音楽に傾倒していた。学校を卒業したイーノはデザイナーとして生計を立てていたが、そこにロキシーのサックス奏者アンディ・マッケイに誘われてロキシーに参加する。

ロキシー時代のイーノは、よくキーボード奏者と思われがちだが、実は違う。彼の担当楽器はシンセサイザーであり、さらにいえばテープレコーダーなのである(これはイーノ自身が「私の担当楽器はテープレコーダーだ」と言っている)。ライブではキーボードを弾いている姿が残っているが、ほとんどは人差し指一本でルートを抑えていたり、レゾナンスのスイッチを「ぐにょーん」とか「じゅわーん」とかやっていただけだ。ロキシーにとってのキーボード奏者はリーダーのブライアン・フェリーなのである。

そして、イーノは2枚のアルバムに参加した後、ロキシー・ミュージックを脱退する。脱退というよりは解雇だったみたいだ。ブライアン・フェリーの名言「ロキシーにブライアンは2人いらない」は有名である(本当に言ったのかは定かでないが)。

もともとブライアン・フェリーは、キング・クリムゾンのグレッグ・レイクの後釜のボーカリスト募集のオーディションを受けたくらいの、メジャー思考の人間なので「音楽を造る」ことよりも、ステロタイプなバンドを成功させたかったような人物なのだろう。

そのロキシーを解雇された話では「Brian Eno 1971-1977 The Man Who Fell To Earth」という番組でイーノが登場して語っている。イーノは「ロキシーはブライアンフェリーのバンドだから、彼が構築したいように進んで言った」と語っている。

この「Brian Eno 1971-1977 The Man Who Fell To Earth」は、とてもよくできたドキュメントなので、ぜひご覧いただくことをオススメする。前編英語だけど、YouTubeなので字幕をオンにして日本語に翻訳すれば、問題なく楽しめる。

ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ

そしてロキシー・ミュージックを脱退したイーノがリリースしたのが1974年の「ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ」だ。なんとも猥褻なアルバムタイトルだが、このあたりにシニカルなユーモアがイーノらしい。

A面の1曲目のオープニング「Needles in the Camel’s Eye」から、当時の僕はノックアウトされる。1974年とえば、まだパンクもニューウェーブも存在していない時代に、この曲はパンクすぎる。

素晴らしいのはB面。特にB面1曲目の「On Some Faraway Beach」は名曲。さらにB面のラスト「Here Come the Warm Jets」はこれからやってくる未来を想起させる。それはドイツのノイ!(NEU!)や、後に登場するウルトラヴォックス!などのシンセサイザーによる未来のサウンドの予感。


ちなみに、この曲↑はB面の3曲目の「Dead Finks Don’t Talk」。この曲では辛辣にロキシーをクビにしたブライアン・フェリーをディスっている(笑)。フェリーのモノマネで歌い、さらにしつこいくらいにフェリーのボーカルをコラージュしておちょくっている(笑)。The Man Who Fell To Earthの動画では、おっさんになったイーノなので、大人の発言をしているが、当時の心境はこんな感じだったのだろう。

アナザー・グリーン・ワールド

そのデビューアルバムである「ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ」に続き「テイキング・タイガー・マウンテン」をリリース。こちらも素晴らしい。このままイギリスのインテリジェンスなポップ・ミュージックを牽引していくのか…と思っていたら、イーノは交通事故に遭遇する。

そして、その入院期間中にさまざまなことを考えたようだ。そもそもイーノは、現代音楽の父とも言えるジョンケージに傾倒し、その後スティーブ・ライヒ、テリーライリー、フィリップ・グラスなどのミニマムミュージックの影響を受けている。彼にとっての音楽はロックンロールではなくアートの領域なのである。

例えば、アメリカのブルースをイギリスのミュージシャンたちの解釈によって、ジミー・ペイジやクラプトンやローリング・ストーンズが存在したように、イーノにとってのルーツは、ジョン・ケージでありマルセル・デュシャンだったのかもしれない。

入院を経てリリースされたこの「アナザー・グリーン・ワールド」は、これまでのイーノのアルバム、もっといえばこれまでのどのようなロックアルバムとは異なる。オープニングの「Sky Saw」の「ん ふんぎゃごん!」と絶叫するようなシンセサイザーに、まず腰を抜かす(笑)

14曲も収録されているにも関わらず、ボーカルが入った曲は5曲だけ。それもイーノの優しさが伝わってくるような牧歌的なイメージ。もちろん全曲が印象的で、僕は何度も何度も(今でも)このレコードを繰り返し聞いている。

これ以上「アナザー・グリーン・ワールド」の素晴らしさを文字で書いても伝わらないので、ぜひ一聴していただきたい。YouTubeならば、このリンクから全曲を視聴することができるはずだ。

あまりにも大きな影響

「アナザー・グリーン・ワールド」以降は「ビフォア・アンド・アフター・サイエンス」というアルバムを最後に、イーノは自らがポップミュージックを作ったり、歌ったりする現場から遠ざかり、「アンビエント1/ミュージック・フォー・エアポーツ」をきっかけにアンビエントと称される環境音楽に傾倒していく。

しかし、同じ時期から自らがフロントに立つことはなかったが、1970年代の最後に登場した数多くのニューウェーブバンドのプロデューサーとしてイーノは音楽を牽引していく。

ウルトラヴォックス!、トーキング・ヘッズ、ディーヴォ、U2。そして混沌とした1978年のニューヨークのパンクシーンを切り取った「No New York」。さらにデヴィッド・ボウイの「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」のベルリン三部作は言うまでもない。

しかし、それも2000年以前の話。現在は音響に関わる現代美術作家として、マイペースで作家活動をされているようだ。それでいい。イーノが残したロックへの貢献は、1972年からの10年間で全てやり尽くしたと思う。巨額のお釣りがくるくらいに。


このブログは、ランキングに登録しています。下のボタンをクリックすると、モリカワブログに一票入り、ランキングが上がります。皆さまのご協力を賜りたく、ぜひクリック(タップ)してください。(クリックするとブログランキングの結果ページに移動します)
投票ボタン