終活としての断捨離のススメ

10年前から断捨離してます

断捨離というのが、この数年ブームのようですね。僕もこの言葉を聞いたのは10年くらい前。自分に関わる「モノ」を「捨てる」という行為。

実は僕は、幼い頃から50歳くらいまで、どちらかといえば「コレクター」系のひとでした。書籍、映画のパンフレット、レコード、CD、DVD、フィギアなどのオモチャ。それ以外にも自分が関わってきたイベントのフライヤーとかチケットの半券とか、カタログとか…なんでもかんでも「残しておきたい」と考えるひとでした。

なぜ、そうなったのかはわかりません。子供の頃から集められるもの…。例えば大阪万博のバッチとか、修学旅行の絵葉書とか、駄菓子屋で売っていたメンコとか1枚5円のウルトラマンのブロマイドとか、カッパコミックスのシールとか、ビックリマンシールとか。もっといえばビールや牛乳瓶の栓とか…。なんでもかんでも残していた習慣がありました。

そんな僕が「捨てる」ということの快感を感じたのは、50歳を越えた頃。タイミング的には以前の妻と別居で、個人の最低限だけの荷物で生活をしていた頃です。それまで数多くの洋服や書籍に囲まれていた自分が、仮のマンションやホテル住まいだったこともあり、いつでも引っ越せるようにしていた生活スタイルから「本当に自分にとって必要なものは何か」を考え始めたのです。

その後(離婚後)も、元の生活で使っていた自分の私物を、当時借りていたマンションに運び込んだのですが、その数量たるや1万冊を越えていました(離婚前には雑誌を含めると3万冊近くあった)。狭いマンションに運ばれてきた書籍やレコードやCDやDVDを見て思いました。

「いまの俺にこれは必要か?」と。

そして出た回答は「必要ない」という大きな決断。まずは、持っていた千枚以上のCDのほとんどを売ったり、捨てました(なぜなら全ての曲はiTunesに移行していたから)。そして1万冊以上の書籍の断捨離に取り組みます。

東京はモノが占める面積との戦い

その基準は「この先に二度と読むことはないだろう」と思う本は、全部捨てました。書籍コレクターというのは罪深いもので、買って集めた本には愛着がある。その本が本棚に並び背表紙を見ているだけで、うっとりしてしまう。けど、そのために住居を本で圧迫されるのは、いかがなものか…と。例えば、僕が東京ではなくもっと家賃の安い地方都市に住んでいたのであれば、捨てることはなかったのかもしれません。そういう意味で、断捨離は都会で生活していくに際し、必要な行為であると僕は考えます。

そんな感じで最初の大きな断捨離をして、残った本が下の写真。これは2010年頃、日本ウェブ協会の理事長をしていた頃で僕の書籍のほとんどは、事務局にしていたスペースに運び込みました。

二度目の大きな断捨離は、僕がいまの妻と一緒にやっていた麻布十番のロックバーを閉店したとき。この時に集めていたフィギアとか壁にディスプレイしていたアナログレコードの多くを捨てました。

それは自分の夢を託したバーが潰れたということで、半ばやけくそになっていたのかもしれないのですが(苦笑)、結果的に、たっぷり愛着があるのものを捨てても、心に傷を負うことはなかったので、これはこれでよかったと思っています。

そして、その直後に僕は妻と入籍 するのですが、一緒に住む家で、残ったほとんどの書籍やDVDも全部捨てました。かつて8畳の壁3面天井まで埋まっていた書籍はたったこれだけになり。機会があればもっと捨てたいと思っています。

2020年で所有している書籍は、たったこれだけになりました。まだ減らしたいです。

愛着と決別するには

前にも書きましたけど、僕は集めた本の背表紙を眺めているのが好きです。いくつかの書籍には、その当時の思い出が染み込んでいます。ですが僕は断捨離を進めてきました。そうした愛着のあるものと決別するには、僕はひとつの手法を用いています。それは「捨てる」と決めたものを、写真にとって記録に残しておくことです。

僕も高齢者なので、どんどん昔のことは忘れていきます。けど、写真という手段で記録(記憶)を残しておくことは、またいつか思い出すことができるでしょうし、いつでも昔の思い出に触れることができると思っているのです。「いままで、ありがとうね」と集めてきた書籍やグッズにお礼を言って、断捨離を進めています。

このページに貼った写真(日本ウェブ協会の事務局や、ロックバー)こそが、僕にとっての財産かもしれません。

結局なにひとつ持って死ねない

僕も還暦を越え、今年で62歳になります。これからももっともっと断捨離を進めて行こうと思っています。それは「人間はいつか死ぬ」からで、死んだあとの遺品整理は、残された人間にとって、けっこうな苦行だからです。それは僕は両親を亡くしたあとに身をもって体験しました。にんげん死ぬときは何一つあの世にもっていけないのです。ならば残された人たちに対しての思いやりとしても断捨離は進めていくべきかと思っています。

れは僕は両親を亡くしたあとに身をもって体験しました。にんげん死ぬときは何一つあの世にもっていけないのです。ならば残された人たちに対しての思いやりとしても断捨離は進めていくべきかと思っています。

最後に、もうひとつ。断捨離を推進するに際して「過去の自分」と別れを告げるという意味で、僕は昨年からスタートさせた、このブログを活用しています。

これまで生きてきた証を、こうしてテキストと写真としてブログページに残していくことは僕にとっての最大の断捨離。この先、何年生きるかわかりませんが、こうして俯瞰で自分の人生を眺めることができるブログは、自分にとっての最高の終活なんじゃないかと思っています。

そういう意味で、このブログは断捨離レコーディングであり、終活にしたいと考えます。


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