日本ファンタジーノベル大賞
今年の寒い頃からずっと「小説」を書いていました。もともとは「小説を書く」なんて気持ちは毛頭なく、5年くらい前に書いた妄想を読み返してみると、それなりに面白かったので、それをある人に見せた。すると「面白いのでちゃんと仕上げてみては…」とアドバイスを貰ったので、調子に乗っただけのことなのである。
今年の寒い頃からずっと「小説」を書いていました。もともとは「小説を書く」なんて気持ちは毛頭なく、5年くらい前に書いた妄想を読み返してみると、それなりに面白かったので、それをある人に見せた。すると「面白いのでちゃんと仕上げてみては…」とアドバイスを貰ったので、調子に乗っただけのことなのである。
人生を諦めたからアル中になってしまったのか、アル中になったので人生を諦めたのか…そのあたりは明確に描かれていないが、誰もが人生でくじけそうになったとき、全てを諦めて、快楽に溺れたい…という願望はあるのではないかと思う。少なくとも僕にはある。
さして大きな起承転結がなく、日本人の日常を静かに描く…というのが僕にとっての、小津安二郎の先入観だ。その先入観は映画評論家がラジオで話しているのを聞いただけなのである…なので、当時高校生の僕にはイマイチ興味がなく、きっと小津作品はこの先もずっと見ないだろうな…と思って、ここまで来た。
僕がこのブログを開始した理由は、ここにも書きましたけど、60歳(還暦)になり、残り人生のほうが短いことが明確な事実。おじいさんな僕だけど、残りの人生も背中を丸めてブツブツ言いながら過ごすんじゃなくて「がつがつ生きていきたい」と思っているのです。Last for Lifeじゃなくて Lust for Life。
そして現場では、パソコンの中でデザインは完成していても、出力できないという致命的なエラーが常時起こります。これは、DTPを実践するには、PostScript(ポストスクリプト)というページ記述言語を使わねばならず、データの作り方を間違えると、「ポストスクリプトエラー」という恐怖のアラートが出て、その瞬間デザイナーは死にます(笑)。
1991年の2月。日本で初めてMacworld Expoが幕張メッセで開催されます。今のAppleのMacユーザーの方はほとんどご存知ないと思うのですが「エキスポ」と名前が付いているだけあって、巨大な展示会です。当時僕たちのデザイン業界では、ほとんどMacは認知されておらず1991年のMacの販売台数は、まだ月間1000台程度。まだウインドウズが台頭する前の時代で、パソコンといえばMS-DOSというのが定番だった時代。ウインドウズ3.0もリリースされた年でしたが、誰も見向きもしなかった時代。それほどパーソナルコンピュータは一般的ではなかったのです。
僕自身は、自分のことを「身体が弱い」と思って幼少期から成人するくらいまで過ごしてきました。というのも、僕は幼児期からずっと「小児ぜんそく」を患っていたのです。
当時Macintoshを購入するには、直営のApple Storeがない時代で、かつ家電製品として電気屋で購入できる時代ではなく、アップルコンピュータ(当時はこれが会社名でした)と契約した、オーストライズディーラーやリセイラーから購入する時代だったのです。うちの会社は土井グラフィックセンターが運営していたアップルセンター梅田で購入。最初のマシンは「Macintosh II fx」というマシンで、本体だけで98万円していました。
ほぼ30年ぶりに会う昔のバンド仲間に、元気をもらったものです。ハジメありがとう。さらに僕とハジメと文田君で「とりあえずバンドやりましょうよ」というハジメの提案で、3人で何回かスタジオで練習したこともあります(このバンドはその後、僕がロックバーをスタートさせたことや、ハジメが香港に移転して仕事を開始したことで、自然消滅してしまったのですが)
そこからMacintoshの雑誌や専門書を買いあさり、調査から半年後に会社にプロジェクトチームを作るための提案書を書きました。これからどんどんコンピュータがデザインの世界に入ってくる。そのための実験と検証とスキルを蓄積したいというのが骨子。結果、社長の了承を経て僕の机の上に、とうとう念願のMacintoshがやってきたのです
僕が初めて参加したバンド「エンゼルアワー」から「プラネットシティ」「遊星都市」と振り返ってみたのですが、この20代のバンド体験は、無駄な趣味のようで実は、その後の人生の「モノつくり」に大きな影響を与えてくれたんじゃないかと思います。
例えば、婦人服の背景はロケなのかセットなのか、ホリゾントなのか。家具の背景には床を作るのか、壁まで作るのか、あるいは押入れを大道具で作ってもらうのか。貴金属や宝石の背景は大理石なのか御影石なのか…。そのあたりも鉛筆で全部ラフを書くのです。1000点すべての商品を。
見終わって半日経っても妙にいろいろなシーンを覚えていて、不思議な感じだった。1年経った今でも、モノクロの映像はなんとなく夢の中の景色のようで、ふと思い出すことがある。心のどこかに入り込んで来るような映画なのかもしれない。
ひとりになっても何故僕は平気だったのか。実はこの頃に新兵器を手に入れたのです。それはローランドのMC-500というシーケンサーです。上の写真がそうなのですがシーケンサーとは書いてなくて「マイクロコンピューター」と書かれていますね。
前のバンドは1年ちょっとで解散したのですが、僕にとってはやり残したことがたくさんありました。もちろん、オリジナル曲を作ることに目覚めて、初めて「自分のバンド」という満足感はあったのですが、やり残したこと…というのは「ライブ」だったのです。
その仕事というのは大丸百貨店の通販部門の売上強化のために、新しいメンバーを集めて取り組むということで、プロジェクトとしては3つ。年に4回発行されるカタログ、毎月発行する新聞折込チラシ、請求書に同梱するチラシ。チラシと云っても、B1の巨大な印刷物であります。それぞれにデザイナーとコピーライターが配属されます。
このレコードはそこそこ売れたようなのですが、残念ながら流通を終えて売り上げを回収する頃には、僕の会社が倒産していて(というか夜逃げのような会社じまい)、売り上げを回収できず(それより借金まみれになった自分自身を立て直すので必死だったので)、参加してくれたメンバーにギャラの分配とかできなかったのが心残りです。
創刊2号で三冊目の発行にして、最終号です(泣)。もちろん本誌そのものは格段にグレードアップして84ページ、表1,2,3,4は全てカラー。巻頭にも8ページのカラーグラビアを入れました。もちろん1号と同様にソノシート付き。さらに部数も取次店を通したこともあり大幅に刷ったものです。もちろん、そうなるとコストの方もすごくなって、この一冊を作るために写植代と製版代と印刷代で200万円近くかかっていました
当時のブルースが、ロックンロールの原点になっていることは間違いないだろうが、あまりにも当時のブルース話ばかりで、ちょっと退屈。途中でストーンズやエルビスが出てきたり、最後にレッド・ツェッペリンの名前が出てくるが、僕としては、こうしたロックへのつながりまでも描いて欲しかなったなあ…と思う。
結局1年半くらいで会社は倒産。すべて社長としての僕の責任だと思います。そして会社が倒産すると、襲ってくるのはお金の取り立て。そのお金を払えるくらいなら会社を潰すことはしないので、このあと借金まみれになる人生のスタートだったのでしょう
この号から、表紙がカラーになり製本も中綴じではなく無線綴じ。ページ数も68ページに増えました。表紙はハナタラシ・ボアダムスの山塚アイさん。表紙に名を連ねているアーティスト(ミュージュシャン、美術作家、芸人、演劇家)は、伊集院明宏、インフェイク、桂さん福、コブラ、PSY・S、ザウンドシステム、思想犯罪、ツアラトゥストラ、中村雅之、VideGram、藤本由紀夫、豆村ひとみ、ヨデンマモル、リンゴ☆マンゴ。
「終活」という言葉がありますよね、人生の最後に向けて準備を整えること。自分が死んだら、財産のある人は相続をどうするか考えたり、どんな葬式を行うのかを考えること。僕もこの数年「終活」に興味を持っていて、それ専門のサイトを作って情報発信しようかと思っていたくらいです(僕にとって、このブログを再開させたのは、ある意味「終活」なんですけどね)。
特に後半、階段落ちの前日にヤスが酒に酔って仲間を引き連れて 小夏が「おでん」を作っているマンションに戻ってからのふたりのシーンはすごい。 ヤスが部屋をめちゃくちゃに破壊するシーンは、ワンカットで撮っているし 最後の小夏の叫びも、クサい芝居ながら感動したりするのである。
この創刊準備号には僕と中澤君のふたり編集長の「創刊の言葉」、いわるるマニフェイスとを最初のページに掲載しました。改めて読むと脂汗が出てきそうな、恥ずかしい文章ですが、一方で20代前半で、僕はこんなことを考えていたのだと思うと、少しだけ褒めてあげたい気持ちになります(笑)