創刊準備号とはいえ、ガチで作った一冊
前回、大阪芸術大学時代の同窓生、中澤君と一緒に「おっさんメディアを作ろうぜ」と「サウンド&ビジョン」というミニコミを作ったこと を書きました。実は僕たちはこの本を企画した段階で「ミニコミ」という出版者の自己満足な世界ではなく、想定していた読者に向けてのメディアを作ろうという気概でいました。
当時僕の本業はグラフィックデザイナー。そして、もうひとりの編集長「中澤てるゆき」君は、現代美術というフィールドで作家活動をしていました。そのふたりがロック、アート、演劇という個人が表現する世界を、出版という形で世の中に送り出し、まだまだ発展途上のアーティストたちを応援したい。応援というにはおこがましく、自分たちもその中のひとりとして、踠き苦しんでいるけど、まだ芽が出ていないアーティストにフォーカスしようと決めたのが、この本のコンセプトです。
創刊の言葉:森川眞行
この創刊準備号には僕と中澤君のふたり編集長の「創刊の言葉」、いわるるマニフェイスとを最初のページに掲載しました。改めて読むと脂汗が出てきそうな、恥ずかしい文章ですが、一方で20代前半で、僕はこんなことを考えていたのだと思うと、少しだけ褒めてあげたい気持ちになります(笑)。
森川眞行
ライブ・レコード・ビデオ等に於いて新しい集団論を唱える音楽プロジェクト「遊星都市」のリーダー。またデザイナーとしても活躍中。本誌では企画・編集・レイアウトを担当する。はじめまして、なつかしい友だち。僕たちは、創造に対する熱烈な意思としての実践こそが、君に関わる最大の才能だと信じます。
現場から遠く離れて傍観者を気取ることはいつだって出来ることだと思います。また、机の上だけの創造というものも限界のあることだと思います。
知らず知らずのうちに僕たちは安全な場所を確保することを覚え、無目的な評論家に成り下がってました。確かに風通しのよい大地に立ち、自分自身を曝け出すことは勇気の要ることだし、恥ずかしいことだと思います。けど、そういった行為こそが、風通しの良い大地に立つ権利を勝ち得ることなのです。
僕たちは君の恥ずかしい行為と思い上がりを支持します。チルドレン・オブ・ザ・レボシューションというサブタイトルを付けたこの小誌が、君の表現の手助けになればと思います…。ここに羅列された活字の中に君自身がもっともっと自由に遊べるようにジャンルとメディアを越えたコンテクストでありたいと願う次第です。
今回、創刊準備号としてスタートラインに立った訳ですが、編集に協力して頂いたスタッフのみなさんが(僕自身も含めて)何らかの表現者・アーティストであることの事実。これは本誌を継続していく上で重要なことであるように思います。アルプススタンドやリングサイドの野次馬・傍観者が無理矢理でっちあげたシロモノなんかじゃなくて、自分自身の表現に関わる時間の中から、こういった共同作業の場を作り出そうとする意思に…。
道を歩いていたところで、交通事故に遭遇することはあっても、君の求めてたHAPPYは決して空から降ってくることはないのです。
さて3ヶ月後から本格的に発行していう本誌であります。その間にもっともっと体力を付け、タフネスでロングスケールな作業を続けていきたいと思っています。
森川眞行
ひえー、なんか20代前半の自分のマニフェストを読むと赤面しますが、でもね、これはこれで、なんか「頑張ってるなあ」と40年近く前の自分を褒めてやりたくなります。
創刊のご挨拶:中澤てるゆき
そして、この冊子のもうひとりの編集長「中澤てるゆき」氏の創刊のごあいさつも掲載されています。
中澤てるゆき
独自の室内空間を構築する美術家。一方「TRIO EXHBITION」というグループの一員として現代美術の実験的集団論を展開。本誌では企画・編集・取材を担当する。ごあいさつ
自分のことはもう他人事じゃないと思います。又、他人の事も自分の事の様に思います(笑)
主体というものと同時に、積極的な客観性というものが仕事律とゆう所から外れだしてゆき、気ままにリゾーム的な遊びを始められたら良いと思います。遊びの有効性を説かれて久しいけれど、能率に対する使用価値としての効率面が力説されたにすぎないんじゃないかな、と思います。
日常生活の余興の部分でのレジャーやレクリエーションの様に、何かがちゃんと有ったうえで遊びを楽しむってやり方でしょ。で、なくって、何もないので遊んでいる。ってゆうのが一方にあってね。
だから、仕事律の中での目的や目標の為に向かっていく様なプロセスじゃなくて、プロセスや関係自体がとても大切だと思うんです。自在は、過渡期の中にこそ輝く。
この小誌は「表現」や「創造」などに関わるすべてについて好奇心を持って見てゆこうとゆう欲求から生まれました。
そして密やかに、こう願っています。一寸とりかえしのつかない様な所にある遊びの精神とゆうか、そうゆう“スリリングな概念”を同時代の幅広い視野を持つ、元気に考える葦と、共有していくことができたらと。
つまり、僕とか、君とか、我々とか言ってるけれども、実は皆、神様であると同時に幽霊なんですよ。で、気ままな編集とリアルな対話から、幽霊の足元を照らし出す事が、もしできたら共同の遊びはもうよしとして又、各個人の意識の世界に帰って行けばいいだろうと、そう思ったりしています。しかし群衆のお化けは、容易に足を見せるとは思えません。
人生は旅である。と言います。生活ってゆうコートを着たり、一般的ってゆうパンツを脱いだりしながら(笑)毎日毎年、少しずつ、そしてどんどん人生そのものについて、分かったり分からなくなったりしてゆくみたいです。だからこそ「これでいいだろう」とか「こんなもんさ」なんて思わないで、素直に「non!」と言いましょう。
Going Together out of the World
弱小の小誌ではありますが、真面目と素直な人材に恵まれております。今後も御慈愛下さいます様、御願いいたします。
八十五年 初夏 中澤てるゆき
40年経って、改めて中澤君のマニフェストを読みましたが、相変わらず何を書いているのか、あまりよく分かっていません(爆)。きっと僕の書いた文章も、彼に伝わっていないでしょう(笑)。
だがしかし、20代の前半で僕たちが書ける文章はこれが精一杯で(笑)、それよりも行動を示す事が重要でした。
1985年の僕たちができる精一杯
編集長は僕と中澤君でしたが、他にも取材のスタッフが2人ほどいて、みんなノーギャラで頑張ってくれた。僕と中澤君は、このミニコミの経費を稼ぐ為に、大阪のレコード屋とかブティックとか画廊やライブハウスに営業した。なにより。この本は「ミニコミ」と言われたくなかったので、すべてのページで写植を使った版下で入稿した。それは僕がデザイン会社を経営していたからでもある。
そして、わずかな広告費でミニコミのコストを賄えるわけがなく、写植代や製版・印刷代は、僕が経営していたデザイン会社から捻出した。
紙面は「関西」にこだわった、音楽やアートや演劇や芸能の人々をとりあげ、可能な限り、まだメジャーではなく日々自己表現というフィールドで頑張っている人々をピックアップしました。
奥付を見ると、発行は昭和60年7月1日とあります。つまり1985年。僕も中澤君もまだまだ未来を信じていた頃でした。