サウンド&ヴィジョンのこと
「サウンド&ヴィジョン」というのは、その5年前、僕が大学時代に参加していたミニコミの名称です。大学時代のサウンド&ヴィジョンは、いわゆる「ロッキングオン」をお手本にしたミニコミで、当時日本中に同じような志で、ロック批評のような作文を書いたミニコミが溢れていましたが、誰もロッキングオンに様にはなれかなったと思います。
「サウンド&ヴィジョン」というのは、その5年前、僕が大学時代に参加していたミニコミの名称です。大学時代のサウンド&ヴィジョンは、いわゆる「ロッキングオン」をお手本にしたミニコミで、当時日本中に同じような志で、ロック批評のような作文を書いたミニコミが溢れていましたが、誰もロッキングオンに様にはなれかなったと思います。
このブログでも僕の「映画レビュー」を掲載していこうと思います。というのも5年くらい前から趣味で、映画のレビューをEvernoteに書き溜めていて、最近までそれをすっかり忘れていたからです。
そこでせっかくブログを作ったことでもあるし、過去のレビューを交えつつ僕なりの独断と偏見のレビューを記録に残していこうと思います。その掲載カテゴリは「映画レビュー」としましたので、よろしくお願いします。
横浜市港南区、上大岡から笹下中学校まで、とにかくよく歩きました。60歳なのに(笑)。でもひとりでずっと回っていなので、知りたかったことはあまりよくわからず。それでも確実に45年前に僕がいた場所の空気を感じることができて満足です。
掲載されているアーティストがすごい。久保田さちお(ヴァージンVS)、遠藤賢司、鳥居あゆみ、植田哲二(榎本みょうが)、戸川純、戸田誠司、米米クラブ、高木一裕(東京ブラボー)、美尾洋乃、光永GUN(メトロファルス)、志村哲、ライオン・メリー、伊藤与太郎(メトロファルス)、藤本由紀夫…。すごいメンツですね。そこに僕も参加できたのが嬉しい。
これまで南森町のデザイン事務所で教わったことしか知らない僕に、師匠は「森川くんの仕事は版下屋だよ。デザイナーはデザインをしなさい」と言われて、ディレクションを教えてもらいました。確かにこれまでの仕事は版下を作ることがゴールだったので、なんだか目から鱗の状態。その日から僕の仕事道具は、ペーパーセメントと写植と版下台紙ではなくなり、レイアウトペーパーとシャープペンシルだけになりました
キツかった…というよりも、給料が安すぎ。朝9時から仕事を開始して、終わるのは終電近くの11時くらい。1日14時間。そして給料は7万5千円。たしか当時は土曜日も仕事があったと思うので、1ヶ月で350時間なので時給換算すると214円。いくら当時の物価が今よりも安いとはいえ時給214円って、最低のアルバイト以下ですやん。
バンド活動としては短い期間でした。やはりひとりだけ社会人で残りは学生…というのは時間の配分が難しい。結局1年ちょっとで解散したのですが、この期間で僕が作品を作り続けたことは、さらに後のバンドにも大きな影響を与えた期間でした。
僕が在籍していた「美術学科」は、それこそ「潰しの効かない」学科でして、大学を卒業してまともな会社に就職した人間は、ほとんどいなかった(笑)。本当に美術(僕の場合は彫刻)に打ち込んでいた人間は、卒業しても作品を作りたいから大学に残ったり、アルバイトで食いつないで作品作りを続けている同級生も多かったです。
ライブハウス出演や、他の大学の学園祭などにも出演し、この年は64回も僕たちはライブを行いました。そして1年前、谷くんが卒業したらどうしよう…という不安と同じものがエンゼルアワーを襲います。それは僕たち自身が卒業してしまうのです。
年が開けて1981年。エンゼルアワーとして活動当初からめまぐるしい変化をしてきた僕たちにも、年明けから4月に向けて、少しだけ陰りがやってきます。というのも、バンドの中心人物であり、全ての楽曲を作り、バンドのコンセプトやイメージを構築してきた谷くんが、3月で大阪芸大を卒業してしまうのです。
おかげさまで…というか、全力投入したからか、オーディションライブは合格で、これからバハマのハコバンとして毎月出演することが決まりました。さらに嬉しいことに、僕らを気に入ったバハマのオーナー(姉さん)が、通常バンドよりもチャージバックが100円高い「土日バンド」に指定してくれたのです。嬉しかったなあ…。
まあ「レコーディング」というのは大げさですが(だってレコードを作るわけじゃないので)、高品質なデモテープを作れるというわけです。さっそくツテやらコネやらを使って、彼のスタジオでデモテープを作ることになりました。彼の名前は「うーさん」と言います。
「バンドやろうぜ」と言われて「おう!やろうぜ」と言ったものの、僕自身、中学時代にはフォークギターを持っていて、そこそこにギターは弾けますが、手元に楽器が何もなかったのです。「じゃ、今から楽器買いにいくか」ということになり、なんだかわけもわからないまま、その足で楽器屋に行き、進められるままにYAMAHAのCS30というシンセを買ったのです。
芝居の本番では、この横12メートルの絵がクレーンで上に上がり、夕方から開演した公演で、テントの外が丸見えになり、そこにイントレで三段組した舞台に白い布が被せられ、さらに三本のマストの帆があがり、そこに炎と海の映像がプロジェクタ3台で投影するという、ドラマチックなクライマックス。
後半の「 Once there were mountains on mountains」あたりから、暗転だったステージに明かりが点り、「これはコカインでラリってる場合じゃねえぜ!」と叫ぶあたりで、ステージの上の照明にすべて明かりが灯るのです!
今回、失業者になって改めて、色々な就活の講習会を受けてみて「仕事に就くのは難しいなあ」と感じています。まず60歳という年齢のハードルが大きい。例えばデザイナーという現場の仕事を考えてみると、年ばかりいっている爺さんなのに、まともなデザインができないポンコツだと悲しいですよね。そういう意味で、この先ハローワークで仕事を探すのは、ちょっと大変そうですけど、まだまだ働いて収入を得なくてはならないので、頑張ってみることにします
デッサンというのは、小手先のテクニックではなく「モノを構造的に見る行為なのだ」ということを徹底的に教え込まれました。いま目の前で見えているものを、きちんと構造化する…ってのは、本当にトレーニングする以外のなにものでもなく、高屋先生も「ちゃんと見る目があれば、デッサンは誰でもできる」とおっしゃってくれていました。
思い出すと、本当に当時の名画座ってよかった。数ヶ月前に封切館でかかっていた映画を安価で観れるだけじゃなくて、なんというか名画座のオーナーの趣味のようなものが反映されていた。例えば「ダーティーハリー2」が名画座でかかる際に、併映が「ダーティーハリー」と、「サンダーボルト」というクリントイーストウッド縛りだったりとか。
できの悪い男子ばかりくるので、ヤンキー系も多かったのですが、この学校に入ると「女が見ていない世界で突っ張っても意味がない」と悟ったのか、どんどんヤンキーがおしゃれなサーファーになっていくのが面白かったです。
1973年4月からスタートした僕の中学三年生は、特別な年でした。その理由は、僕は中学三年生でガールフレンドが居たのです。彼女は隣のクラスで背が高く(もしかしたら僕よりも大きかったかも)、部活をやっている僕をみて自分は運動ができないのに、マネージャとして入部した女子。
中学2年の秋、やっとの思い出買ったのがT-レックスの「スライダー」。これが僕が購入した初めての洋楽アルバム。どうですか、このアルバムジャケット。これぞグラムロックという感じですよね。T.レックスと言えば、ちょっとハードなロックンロールのイメージがあるので、アルバムもギンギンのロックンロールと思いきや、実はそうでもない。
我が家には現在トーカイのテレキャス、フェンダーのテレキャス、オベーションの12弦。そしてショートスケールのベースが一本…というのが、弦楽器の環境。これらを使ってどんな楽曲を作っているのかは、また後日ブログに書きますね。
そんな僕が音楽に目覚め始めたのは、小学校6年から。少しだけ早く僕はラジオを聴く子供になっていて、そこでかかっている洋楽に心を惹かれていきました。かった順番は覚えていないけど、ドーンの「ノックは3回」、中学校1年の夏休みに見た「小さな恋のメロディ」。
同じクラスになってからは、毎日ずっと遊んでいた。部活が終わると一緒に帰り、日曜日は一緒に秘密基地を作った。そしてある日、谷くんは自分のノートに描いているマンガを見せてくれた。そこにはサイボーグ002と004が仮面ライダーと戦っており、そこにスパーダーマンも参戦して、さらに自分で考えたヒーロー「ミーティアマン」が登場する。
今日は、妻の父親(義父)の誕生日。なんと88歳だそうです。いまだに健在で(義母も)お元気なのは、嬉しい限り。妻は3人姉妹で、それぞれに結婚し子供がいて合計すると7人の孫がいることになります。さらにうちの娘が昨年息子を出産したので、曽孫がひとり。それぞれの夫婦を合計すると16人のファミリー。すごいですね。
愛知県稲沢市に住んだのは小学校の1年生の3学期。それまでは同じ愛知県の千種区だったのですが、名古屋支店に勤務していた父が、会社の社宅が新築されたのでそこに入居したのです。社宅といっても普通の一戸建て。稲沢市の緑町というところで、そこは奥田団地と呼ばれていました
この頃の僕は、どちらかと云うと怪獣映画よりも「東映まんがまつり」を熱心に見ていたようで、わんわん忠臣蔵、アンデルセン物語、空飛ぶゆうれい船、長靴をはいた猫…とほぼほぼコンプリートしてます。その「東映まんがまつり」の対抗馬「東宝チャンピオンまつり」もタイミングが合わず、そんな時に見たのが大映の怪獣映画でした。見たのは「ガメラ対バルゴン」と「大魔神」の二本立て。
1958(昭和33)年、大阪府茨木市に生まれた僕は5歳の時に、父の転勤で広島に住みます。どこに住んでいたのかは全く記憶になく、確かアパート住まいだったと思います。近所には線路があり、そこには蒸気機関車が走っていました。
子供の頃を思い出してみると、僕はマンガばかり読んでいた子供でした。そして、うちの母親の実家は紙問屋で家にはたくさんの紙と筆記用具があったので、小さい頃から絵ばっかり描いていました。もちろん明るい時間は外で走り回っている子供でしたが、家に帰ると絵を描いて、テレビマンガを見て、マンガの本ばかり読んでいるような子供だったのです
自分の体感的にグループサウンズが流行していたのは、1967年から1968年。小学校の3年・4年という感じです。クラスの中でもグループサウンズに夢中になっているのは、ほぼほぼ女子(あたりまえ)で、僕は男子の割にはグループサウンズを応援していたように思う。
音楽が素晴らしい。全体に管楽器を中心にしたオーケストラレーションが素敵すぎる。間奏のメロディなんて、「いつかこんな曲を作ってみたい」と今でも思います。特に間奏の最後のホルンの音が最高です。そしてメロディがなんとも切ない。途中の「微塵がくれだ火炎の術だ」の部分では、胸が締め付けれられませんか?
生まれて初めて映画館で観た映画を思い出してみると、ディズニーの「101匹わんちゃん大行進」という映画でした。なんで覚えているかというと、映画の中に出てくるわんちゃん(ダルメシアン)の子犬を毛皮にしようと企む鬼ババア「クルエラ・デ・ビル(Cruella De Vil)」があまりにも怖かったからです(笑)
自分にとって一番古い記憶とか、景色ってなんだったのだろうと考えてみた。その記憶を手繰るために、生まれてから住んでいた街を書き出してみた。僕の家は父親が会社員で、証券関係の仕事をしていた。その関係で転勤が多く、当然のように家族も引越しで一緒に付いていっていたのです。
日々思いついたことを好き勝手に書くという「垂れ流しブログ」では、きっとネタ切れになったり、途中で飽きてしまうだろうと思い、まずは掲載する記事をざっくりカテゴリに分類してみました。このやり方は仕事で中小企業さんのブログを構築していくときも同じ。いわゆる情報分類設計ってやつです(笑)。
趣味は、音楽を作ったり、音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、旅行したり、料理を作ったり…と色々ありますが、これも話すと長いので別に書きます。
というか、自分を語るにあたって、話したいこと(書きたいこと)が沢山あります。ですので、今回こうして久しぶりにブログサイトをスタートした次第なのです。