合羽橋商店街に行ってきた
以前のブログ記事で「ライター仕事のサイトが公開されました」というのを書きましたが、今回はその仕事の取材で合羽橋商店街に行ってきました。
以前のブログ記事で「ライター仕事のサイトが公開されました」というのを書きましたが、今回はその仕事の取材で合羽橋商店街に行ってきました。
ライターとしての僕は、知っている限りの友人コネクションを使って、多くの取材とライティングをしました。僕の担当したページは「ライター:森川 眞行」から見ることができます。
三芳菊酒造では、オリジナルの新商品として「アマビエ・ワンカップ三芳菊」を準備中です。ワンカップなので飲みきりサイズの三芳菊。そしてラベルには新型コロナウィルス疫病退散を祈願して、色々な方が描いたアマビエをパッケージにしています。
以前の記事でも書いた「モリカワブログ:Tシャツショップ開設!」ですが、最初に自分たち用にデザインしたTシャツとパーカーが届きました。
まずは、みなさん「買って!」とお願いするしかない。そしてFacebookやTwitterなどでシェアしていただいたりと、拡散のお手伝いをしてくださると嬉しいです!
回コロナウィルス対策としてテレワークが推奨されていますが、多くの企業で、その対応汗だくになっている。それはテレワークとはDXの中の一例であるためです。だからこそ、企業の中で、いま、DXの脆弱性を見つけて、そこを埋めていくことが求められていると思います。
このように情報の分類方法や構造化にはいくつかの手法があります。そしてこれらの手法をどうやって組み合わせるかは、やはりユーザー視点が重要になります。
最初にやることは、サイトに掲載するコンテンツのアイデア出しです。この段階で実現不可能なアイデアでもとにかく記述すること。さらにカードには、コンテンツの企画だけじゃなく、ぼんやりとしたイメージでもよいので、コンテンツとして提供したい「気分」や「体験」なども書き出しておきます。
そして、さっそくマックプレスで連載を依頼されました。かつでミニコミの編集長でもあり、記事も書いていた僕は、当然快諾で「DTP現場検証」というコラムを1年くらい書きました。
ディレクトリマップは、あくまで「物理的に」情報が保存されている状態を示すものです。そしてサイトによってはドキュメントが膨大になるため、正確なページ数を把握することはできますが、直感的にサイトの構造を読み解くには不向きです。そのような場面で使用されるのが「ハイレベルマップ(ハイレベルストラクチャ)」になります。
戸田ツトム氏といえば、杉浦康平、羽良多平吉と並んで、僕が尊敬してやまないエディトリアルデザイナー。大学時代に毎月、工作舎の「遊」を購入し、その杉浦康平氏のデザインに痺れてデザイナーになったと言ってもよいです
改めて、すべての自分の本が並んでいるのを見ると、それなりに感激します。実は過去に書いたFireworksやDreamweaverなどの専門書のことは、この数年自分の中で完璧に忘れていたというのが事実。忘れていたというより封印していたのかも知れません。
「ウェブコンサルタント」という怪しげな(笑)肩書きを名乗らせてもらうことにしました。では、ウェブコンサルタントとは何? と問われるとスパッと答えられないのが情けないのですが(笑)、いちおうオールラウンドに「ウェブサイトを使って商品を販売したりサービスを展開することのお手伝いを、依頼者のスケールの大小に関わらずに参加できるメンバー」ということになります。
いわゆる失業保険は次の就職に向けての準備のための資金ということで、この半年何度かハローワークに通って、求職活動をしてきましtaが、やはり年齢のこともあり、なかなか条件に見合う企業を探すことは難しい。そんなこんなで最後の給付金の手続きをしてきまして、明日からは自力で生きていかなくてはなりません。
このサービスを作った加藤くんというのは、僕が前職、前々職で一緒だったフロントエンドエンジニアで、前々職の仕事で、とある大学のリニューアルを請け負った際に、僕が人力でディレクトリマップを作っていたのを隣の席で見ていて(笑)、あまりに大変で、かつクリエイティブではないので、このサービスを思いついたそうなのです
プロトタイピングの目的は、製品(この場合はウェブ画面やスマホアプリ)の使いにくさを減らすために行うステップで、制作する画面は、ワイヤー以上の精度が必要になり、掲載する情報部品(ボタンや見出しなど)の形や色、大きななども完成品に近いイメージのものを制作して、確認を行います。
ペルソナとは「架空の人物像」として、ウェブサイトやウェブサービスを利用し、ターゲットとなるステークホルダーを可視化したものです。ペルソナを策定することは、ステークホルダーのインサイト(内面の気持ち)を知ることであり、これは初期のサイト構築や改修だけでなく、長い視点で商品やサービスを買って(使って)欲しい顧客の気持ちを掴むことにも役立ちます。
目的を持ってホームページを閲覧する人。すなわちサイトと利害関係のある閲覧者(ステークホルダーと言います)を明確にしておかなくてはなりません。むろんホームページは誰が閲覧しても情報にタッチできるように設計したり、コンテンツ(記事)を執筆することは重要ですが、優先すべきはステークホルダーであると考えます。
情報をホームページに掲載するには、数多くの項目を分類し、整理して並べ替えてあげることが求められます。この項目の並べ替えを「情報設計」と呼んでいます。身近な例で例えるならば、書店や図書館の本棚の区分や、コンビニの商品の配置や、商業施設(百貨店や大型家電ショップなど)のフロアーの分類も情報設計のひとつだと思います。
今思えば「よいデザイン」と言われるために、デザイナーは本来やるべきことである、「サービスや商品の情報を伝える」ことよりも、一発芸のごとく、見た目にインパクトを与えて斬新なことをしたい…などという自己満足のために仕事をしていたのかもしれません。未だにデザイナーの中の幾人かは、自分の作った成果物を「作品」と呼ぶのは、思い上がった自己満足と自己顕示欲があるからでしょう。
わたし自身は、グラフィックデザインが出発点でしたが、40年の経過を経て「デザイン」という言葉の重みを重視して、これからも顧客が満足できる体験を設計(デザイン)していきたいと考えています。すなわちそれは、我々にとってのクライアント様(情報提供者)を幸せにすることだと信じているからです。
そして現場では、パソコンの中でデザインは完成していても、出力できないという致命的なエラーが常時起こります。これは、DTPを実践するには、PostScript(ポストスクリプト)というページ記述言語を使わねばならず、データの作り方を間違えると、「ポストスクリプトエラー」という恐怖のアラートが出て、その瞬間デザイナーは死にます(笑)。
1991年の2月。日本で初めてMacworld Expoが幕張メッセで開催されます。今のAppleのMacユーザーの方はほとんどご存知ないと思うのですが「エキスポ」と名前が付いているだけあって、巨大な展示会です。当時僕たちのデザイン業界では、ほとんどMacは認知されておらず1991年のMacの販売台数は、まだ月間1000台程度。まだウインドウズが台頭する前の時代で、パソコンといえばMS-DOSというのが定番だった時代。ウインドウズ3.0もリリースされた年でしたが、誰も見向きもしなかった時代。それほどパーソナルコンピュータは一般的ではなかったのです。
当時Macintoshを購入するには、直営のApple Storeがない時代で、かつ家電製品として電気屋で購入できる時代ではなく、アップルコンピュータ(当時はこれが会社名でした)と契約した、オーストライズディーラーやリセイラーから購入する時代だったのです。うちの会社は土井グラフィックセンターが運営していたアップルセンター梅田で購入。最初のマシンは「Macintosh II fx」というマシンで、本体だけで98万円していました。
そこからMacintoshの雑誌や専門書を買いあさり、調査から半年後に会社にプロジェクトチームを作るための提案書を書きました。これからどんどんコンピュータがデザインの世界に入ってくる。そのための実験と検証とスキルを蓄積したいというのが骨子。結果、社長の了承を経て僕の机の上に、とうとう念願のMacintoshがやってきたのです
例えば、婦人服の背景はロケなのかセットなのか、ホリゾントなのか。家具の背景には床を作るのか、壁まで作るのか、あるいは押入れを大道具で作ってもらうのか。貴金属や宝石の背景は大理石なのか御影石なのか…。そのあたりも鉛筆で全部ラフを書くのです。1000点すべての商品を。
その仕事というのは大丸百貨店の通販部門の売上強化のために、新しいメンバーを集めて取り組むということで、プロジェクトとしては3つ。年に4回発行されるカタログ、毎月発行する新聞折込チラシ、請求書に同梱するチラシ。チラシと云っても、B1の巨大な印刷物であります。それぞれにデザイナーとコピーライターが配属されます。
結局1年半くらいで会社は倒産。すべて社長としての僕の責任だと思います。そして会社が倒産すると、襲ってくるのはお金の取り立て。そのお金を払えるくらいなら会社を潰すことはしないので、このあと借金まみれになる人生のスタートだったのでしょう
これまで南森町のデザイン事務所で教わったことしか知らない僕に、師匠は「森川くんの仕事は版下屋だよ。デザイナーはデザインをしなさい」と言われて、ディレクションを教えてもらいました。確かにこれまでの仕事は版下を作ることがゴールだったので、なんだか目から鱗の状態。その日から僕の仕事道具は、ペーパーセメントと写植と版下台紙ではなくなり、レイアウトペーパーとシャープペンシルだけになりました
キツかった…というよりも、給料が安すぎ。朝9時から仕事を開始して、終わるのは終電近くの11時くらい。1日14時間。そして給料は7万5千円。たしか当時は土曜日も仕事があったと思うので、1ヶ月で350時間なので時給換算すると214円。いくら当時の物価が今よりも安いとはいえ時給214円って、最低のアルバイト以下ですやん。
僕が在籍していた「美術学科」は、それこそ「潰しの効かない」学科でして、大学を卒業してまともな会社に就職した人間は、ほとんどいなかった(笑)。本当に美術(僕の場合は彫刻)に打ち込んでいた人間は、卒業しても作品を作りたいから大学に残ったり、アルバイトで食いつないで作品作りを続けている同級生も多かったです。
今回、失業者になって改めて、色々な就活の講習会を受けてみて「仕事に就くのは難しいなあ」と感じています。まず60歳という年齢のハードルが大きい。例えばデザイナーという現場の仕事を考えてみると、年ばかりいっている爺さんなのに、まともなデザインができないポンコツだと悲しいですよね。そういう意味で、この先ハローワークで仕事を探すのは、ちょっと大変そうですけど、まだまだ働いて収入を得なくてはならないので、頑張ってみることにします