フィールド・オブ・ドリームス
いい映画である。なにより登場人物がみんな「いいひと」なのである。 奥さんもそれなりに美人でいい感じだし。娘たちもラブリーなのだ。最後まで野球場の取り壊しを主張していた義弟までが、最後はいいひとになる(笑)そして当然のように、感動的で夢のあるハッピーエンドが待っている。
いい映画である。なにより登場人物がみんな「いいひと」なのである。 奥さんもそれなりに美人でいい感じだし。娘たちもラブリーなのだ。最後まで野球場の取り壊しを主張していた義弟までが、最後はいいひとになる(笑)そして当然のように、感動的で夢のあるハッピーエンドが待っている。
とにかく面白い。最初から最後まで飽きることなく見続けられる。 物語もテンポよく進み、撮影も素晴らしい。 この当時では珍しいハンディカメラを多用した撮影は スピード感にあふれ、画面を走り回る暴力団の姿をうまくとらえていると思う。やっぱ深作欣二はすげー、と唸ってしまいます。
僕はこういう、男ふたりの友情ドラマに弱い。真夜中のカーボーイ、サンダーボルト、傷だらけの天使…。最後はいつも悲しい結末が待っている。話の序盤で「海を見に行こうぜ」ということになった瞬間からラストシーンがなんとなく予想できてしまった。いい意味で。
この映画ではかなりライトに描かれているが(それが合衆国でのガンへのスタイルなのかもしれないが)、ガンにかかった患者とその家族、友人が抱える重たさは、実際に体験したことがないとわからない重さだ。とりわけ日本の場合は、友人はそこにあまり関与せず、家族の中で重くのしかかる。
以前に、サンセルモ玉泉院という葬儀会館に行って、自分の葬式のレクチャを受けたことを書きましたが、今回は、その玉泉院が行っている「海洋葬」の体験をしてきました。海洋葬というのは、告別式のあとの火葬で遺骨を海に散骨するという埋葬方法です。
音楽をテーマにした映画は、いつも熱心に観てしまうが、この映画は別。 だって石原裕次郎はドラム叩いてないんだもん。 本当に叩けるのかもしれないけど、音源が差換えられているのが、モロバレなんすよ。
タイムトラベルものの映画は、制作する側も難しいと思う。そもそもタイムトラベルが存在しないので、そこに生じるパラドックスも仮説でしかない。そして観客も「存在しないもの」の世界を体験するので、なんだかとても評論家っぽくなってしまって粗探しをしたりする。
チームメイトの女優さんたちは、それなりにキャラが立っていたと思う。シンディ・ローパー似の切れたチームメイト、メリル・ストリープ似のおばさんなどなど。金髪の黒人のねーちゃんも強そうでよかった。ちなみにそのシンディ・ローパー似のチームメイトを演じているのが「E.T.」で主人公の妹を演じた名子役だった監督のドリュー・バリモア。
主役のレイン・ウィルソンは、この間観た「メタルヘッド」で妻を亡くして意気消沈している父親だったが、今回は、さらにしょぼくてキモくて、情けない役。このおっさんは、こういうパチモンのヒーロー役を演じると最高だ。ちなみに相棒のエレン・ペイジも、先日見た「ローラーガールズ・ダイアリー」に出演していて、今回も元気一杯の女子の役所。
自動車事故で妻・母を失った親子が祖母の家に住んでいる。そこに大音量でへヴィメタルを流して破壊行動を繰り返す男が、勝手に住み着いてしまう。…という設定で、設定だけ書くと、コメディっぽいのだけど、これがコメディじゃないんだ。逆に言えば、コメディじゃない映画なので、すごくダルイのである。
正直おもしろくなかった。どこがいいのか解らない。撮影も編集もありきたり、特に音楽の使い方はマヌケである。実はこの吉永小百合バージョンは3作目で、以前にも2つの映画があるみたいだ。どうしてこの映画を、こんな短期間にリメイクするのは謎だ。
映画とは関係ないけど、僕もアメリカが好きでなんども行っている。タバコを吸うのでドラッグストアとガソリンスタンドにはよく行くのだが、ガソリンスタンドやドラッグストアを襲撃するアメリカ映画って山の如しなので、いつもちょっとだけ緊張する(笑)。
「うだつ」とは家の軒先にある屋根と屋根の間に作る、もうひとつの屋根のようなもので、元来は暴風。防火を目的にしていたらしいのですが、徐々に装飾的な意味合いが強くなり、裕福な家屋は「うだつ」をあげて家の繁栄を誇示していたそうです。それにくらべ、うだつをあげられない家を「うだつのあがらない」と呼び。いまでもぱっとしない人や家に対して、蔑むような言葉で生きていますね。
今年の寒い頃からずっと「小説」を書いていました。もともとは「小説を書く」なんて気持ちは毛頭なく、5年くらい前に書いた妄想を読み返してみると、それなりに面白かったので、それをある人に見せた。すると「面白いのでちゃんと仕上げてみては…」とアドバイスを貰ったので、調子に乗っただけのことなのである。
人生を諦めたからアル中になってしまったのか、アル中になったので人生を諦めたのか…そのあたりは明確に描かれていないが、誰もが人生でくじけそうになったとき、全てを諦めて、快楽に溺れたい…という願望はあるのではないかと思う。少なくとも僕にはある。
さして大きな起承転結がなく、日本人の日常を静かに描く…というのが僕にとっての、小津安二郎の先入観だ。その先入観は映画評論家がラジオで話しているのを聞いただけなのである…なので、当時高校生の僕にはイマイチ興味がなく、きっと小津作品はこの先もずっと見ないだろうな…と思って、ここまで来た。
僕がこのブログを開始した理由は、ここにも書きましたけど、60歳(還暦)になり、残り人生のほうが短いことが明確な事実。おじいさんな僕だけど、残りの人生も背中を丸めてブツブツ言いながら過ごすんじゃなくて「がつがつ生きていきたい」と思っているのです。Last for Lifeじゃなくて Lust for Life。
そして現場では、パソコンの中でデザインは完成していても、出力できないという致命的なエラーが常時起こります。これは、DTPを実践するには、PostScript(ポストスクリプト)というページ記述言語を使わねばならず、データの作り方を間違えると、「ポストスクリプトエラー」という恐怖のアラートが出て、その瞬間デザイナーは死にます(笑)。
1991年の2月。日本で初めてMacworld Expoが幕張メッセで開催されます。今のAppleのMacユーザーの方はほとんどご存知ないと思うのですが「エキスポ」と名前が付いているだけあって、巨大な展示会です。当時僕たちのデザイン業界では、ほとんどMacは認知されておらず1991年のMacの販売台数は、まだ月間1000台程度。まだウインドウズが台頭する前の時代で、パソコンといえばMS-DOSというのが定番だった時代。ウインドウズ3.0もリリースされた年でしたが、誰も見向きもしなかった時代。それほどパーソナルコンピュータは一般的ではなかったのです。
僕自身は、自分のことを「身体が弱い」と思って幼少期から成人するくらいまで過ごしてきました。というのも、僕は幼児期からずっと「小児ぜんそく」を患っていたのです。
当時Macintoshを購入するには、直営のApple Storeがない時代で、かつ家電製品として電気屋で購入できる時代ではなく、アップルコンピュータ(当時はこれが会社名でした)と契約した、オーストライズディーラーやリセイラーから購入する時代だったのです。うちの会社は土井グラフィックセンターが運営していたアップルセンター梅田で購入。最初のマシンは「Macintosh II fx」というマシンで、本体だけで98万円していました。
ほぼ30年ぶりに会う昔のバンド仲間に、元気をもらったものです。ハジメありがとう。さらに僕とハジメと文田君で「とりあえずバンドやりましょうよ」というハジメの提案で、3人で何回かスタジオで練習したこともあります(このバンドはその後、僕がロックバーをスタートさせたことや、ハジメが香港に移転して仕事を開始したことで、自然消滅してしまったのですが)
そこからMacintoshの雑誌や専門書を買いあさり、調査から半年後に会社にプロジェクトチームを作るための提案書を書きました。これからどんどんコンピュータがデザインの世界に入ってくる。そのための実験と検証とスキルを蓄積したいというのが骨子。結果、社長の了承を経て僕の机の上に、とうとう念願のMacintoshがやってきたのです
僕が初めて参加したバンド「エンゼルアワー」から「プラネットシティ」「遊星都市」と振り返ってみたのですが、この20代のバンド体験は、無駄な趣味のようで実は、その後の人生の「モノつくり」に大きな影響を与えてくれたんじゃないかと思います。
例えば、婦人服の背景はロケなのかセットなのか、ホリゾントなのか。家具の背景には床を作るのか、壁まで作るのか、あるいは押入れを大道具で作ってもらうのか。貴金属や宝石の背景は大理石なのか御影石なのか…。そのあたりも鉛筆で全部ラフを書くのです。1000点すべての商品を。
見終わって半日経っても妙にいろいろなシーンを覚えていて、不思議な感じだった。1年経った今でも、モノクロの映像はなんとなく夢の中の景色のようで、ふと思い出すことがある。心のどこかに入り込んで来るような映画なのかもしれない。
ひとりになっても何故僕は平気だったのか。実はこの頃に新兵器を手に入れたのです。それはローランドのMC-500というシーケンサーです。上の写真がそうなのですがシーケンサーとは書いてなくて「マイクロコンピューター」と書かれていますね。
前のバンドは1年ちょっとで解散したのですが、僕にとってはやり残したことがたくさんありました。もちろん、オリジナル曲を作ることに目覚めて、初めて「自分のバンド」という満足感はあったのですが、やり残したこと…というのは「ライブ」だったのです。
その仕事というのは大丸百貨店の通販部門の売上強化のために、新しいメンバーを集めて取り組むということで、プロジェクトとしては3つ。年に4回発行されるカタログ、毎月発行する新聞折込チラシ、請求書に同梱するチラシ。チラシと云っても、B1の巨大な印刷物であります。それぞれにデザイナーとコピーライターが配属されます。
このレコードはそこそこ売れたようなのですが、残念ながら流通を終えて売り上げを回収する頃には、僕の会社が倒産していて(というか夜逃げのような会社じまい)、売り上げを回収できず(それより借金まみれになった自分自身を立て直すので必死だったので)、参加してくれたメンバーにギャラの分配とかできなかったのが心残りです。
創刊2号で三冊目の発行にして、最終号です(泣)。もちろん本誌そのものは格段にグレードアップして84ページ、表1,2,3,4は全てカラー。巻頭にも8ページのカラーグラビアを入れました。もちろん1号と同様にソノシート付き。さらに部数も取次店を通したこともあり大幅に刷ったものです。もちろん、そうなるとコストの方もすごくなって、この一冊を作るために写植代と製版代と印刷代で200万円近くかかっていました
当時のブルースが、ロックンロールの原点になっていることは間違いないだろうが、あまりにも当時のブルース話ばかりで、ちょっと退屈。途中でストーンズやエルビスが出てきたり、最後にレッド・ツェッペリンの名前が出てくるが、僕としては、こうしたロックへのつながりまでも描いて欲しかなったなあ…と思う。
結局1年半くらいで会社は倒産。すべて社長としての僕の責任だと思います。そして会社が倒産すると、襲ってくるのはお金の取り立て。そのお金を払えるくらいなら会社を潰すことはしないので、このあと借金まみれになる人生のスタートだったのでしょう
この号から、表紙がカラーになり製本も中綴じではなく無線綴じ。ページ数も68ページに増えました。表紙はハナタラシ・ボアダムスの山塚アイさん。表紙に名を連ねているアーティスト(ミュージュシャン、美術作家、芸人、演劇家)は、伊集院明宏、インフェイク、桂さん福、コブラ、PSY・S、ザウンドシステム、思想犯罪、ツアラトゥストラ、中村雅之、VideGram、藤本由紀夫、豆村ひとみ、ヨデンマモル、リンゴ☆マンゴ。
「終活」という言葉がありますよね、人生の最後に向けて準備を整えること。自分が死んだら、財産のある人は相続をどうするか考えたり、どんな葬式を行うのかを考えること。僕もこの数年「終活」に興味を持っていて、それ専門のサイトを作って情報発信しようかと思っていたくらいです(僕にとって、このブログを再開させたのは、ある意味「終活」なんですけどね)。
特に後半、階段落ちの前日にヤスが酒に酔って仲間を引き連れて 小夏が「おでん」を作っているマンションに戻ってからのふたりのシーンはすごい。 ヤスが部屋をめちゃくちゃに破壊するシーンは、ワンカットで撮っているし 最後の小夏の叫びも、クサい芝居ながら感動したりするのである。